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2012.1.15
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矢の満ちた矢筒を持つ者

『見よ、子どもたちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの
賜物である。壮年の時の子どもは勇士の手にある矢のようだ。矢の
満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥
じることはない』。             (詩篇127篇3節)


 詩篇127篇はト書きに「ソロモンがよんだ都もうでの歌」とある
ように、ソロモン王の作であろうと言われています。そしてこの歌
は神殿建築のときにうたわれたものと言われています。彼の生涯の
多くは建築事業で、神殿建築のために7年間、王宮建築のために13
年間、合計20年間を建築事業に費やしています。 どうしてこんな
に長い間も建築事業に没頭することができたのでしょうか。聖書に
は「四方に太平を賜ったから」と書いています。つまり近隣諸国と
平和だったからです。戦争をしていたらこんなことはできません。
もうひとつは、ソロモンは外国貿易(三角貿易)で莫大な利益を得
ていたからこんなに大きな事業ができたのです。


 さて、この127篇は大きく二つに分かれます。前半の1節から2節
は『主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。
主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、
むなしいことである』とあります。つまり「どんなに立派な家を建
てても、その中に主(神)がおられなかったらむなしい」と言って
いるのです。また「町に堅固な城壁をきずいて夜どうし見張りに監
視させていても、主に守られるのでなければ安心することはできな
い」と言っているのです。

 また、「朝早くから夜遅くまで働いても、その家庭のなかに主が
おられなければ家庭の平和、幸福はない」とも言っているのです。
つまり詩篇16篇2節の『あなたはわたしの主、あなたのほかにわた
しの幸いはない』に繋がっていくのです。

 また、2節『あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを
食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠って
いる時にも、なくてならぬものを与えられるからである』とありま
す。これは「それほど一生懸命に働かなくても、神を信じておれば、
神がわたしたちの必要を備えてくださる」という意味です。

 次に後半ですが、子どもたちのことを言っています。『見よ、子
どもたちは神から賜わった嗣業であり、胎の実は報いの賜物である。
壮年の時の子どもは勇士の手にある矢のようだ、矢の満ちた矢筒を
持つ人はさいわいである。彼は門で敵と物言うとき恥じることはな
い』とあります。

 ここで「子どもは神からの賜物である」とありますから、その与
えられた子供を大切に、また愛情を注いで、神のみ旨に適う器とな
るように育てなければなりません。「自分の生んだ子どもだから自
分のものだ、自分がどうするのも勝手だ」と子どもを虐待したり、
不幸な目にあわせている親がいますがとんでもないことです。

 『壮年の時の子は勇士の手にある矢のようだ。矢の満ちた矢筒を
持つ人はさいわいである』とありますが、この「矢の満ちた矢筒」
とは子どもをたくさん持つことです。そして壮年のときにたくさん
の子どもに恵まれている人は幸せなことで、彼らが大人になったと
きに大きな助けとなるからです。

 16世紀の戦国時代に、日本(種子島)に鉄砲が入ってくる前は刀
と弓矢の時代でした。そして弓矢は遠くから敵を倒すことのできる
強力な武器だったのです。そして戦士は矢を筒に入れて背負ってい
ました。その筒にたくさんの矢を持っている人は恵まれた人です。
なぜなら、将来そのこどもたちが大きな戦力となり親を助けてくれ
るからです。

 こんな話があります。ある教会の講演会の後で、ひとりの女性が
講師のところにきて、「先生、その節はたいへんお世話になりまし
た。先生のお蔭でわたしたちの家族は命拾いしました」と挨拶をし
ました。ところが講師はその女性のことが思い出せずにいましたら、
女性は「もう十数年も前のことです。わたしが先生の産婦人科にい
きますと、先生は、おめでとうございます。妊娠三ヶ月です」と言
われましたので、「堕ろしてください。既に3人の娘がありこれ以
上の子どもは養えません」と言いましたら、先生は「子どもは神様
からの授かりものだから生みなさい。きっとこの子が将来あなたた
ちのためになるから」と言ってクリスチャンの医師は堕ろすことを
承知してくれませんでした。

 そして生まれたのがやはり女の子でした。そのときわたしは先生
を恨みました。わたしにしては「余分な子」でしたが、その子ども
が小学校に入ったころから友達に誘われて近くの教会学校に行くよ
うになりました。あるとき主人が病気になり入院したとき、その子
が主人にせっせと手紙を書いているのです。何を書いているのか分
かりませんが、主人はその子の手紙を心待ちにするようになりまし
た。あとで分かったのですが、その中身は教会学校で教えられた聖
書のみ言葉を書いていたのです。そして主人はそのみ言葉で慰めら
れ、希望が与えられたそうです。そしてやがて家族全員が教会に行
くようになり救われたのです。「先生、この子が将来、必ず役に立
つ子になるといわれた通りになりました」と言って感謝されたそう
です。「余分な子」と言われた子に救われたのです。余分な子はひ
とりもいません。              (Jan,15.2012)