枯れたいちじくの木
『朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。
そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見
て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかっ
た。そこでその木に向かって、「今から後いつまでも、お
前には実がならないように」と言われた。するといちじく
の木はたちまち枯れた』。 (マタイ福音書21章18節)
日曜日にエルサレムに入場されたイエスは、その夜はベ
タニヤ村で休まれ、翌日の月曜日に再びエルサレムに途上
されました。ところが、途中にいちじくの木をみつけられ
たので近づいてその実を求められたのです。しかし実が成
っていなかったのでイエスは「今から後いつまでも、お前
には実がならないように」と呪われたところが、たちまち
木は枯れたというのです。
マルコ福音書11章13節には「いちじくの季節でなかっ
た」とあります。これではイエスの行為は「ないものねだ
り」ではありませんか。実はこれは弟子たちに対する象徴
的な教訓だったのです。つまり、主が求められたら、いつ
でもそれに応えられるようでなければならないということ
です。
わたしたちクリスチャンはいつでも実を結ぶものでなけ
ればなりません。ヨハネ福音書15章16節には『あなたが
たがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選
んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あ
なたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るた
めであり』とあります。つまりクリスチャンの生涯は実を
結ぶ生涯であります。ですから実の無いいちじくにならな
いように、いつも御霊の力に満たされて実を結ぶものであ
りたいものです。
柘植不知人先生がある教会の応援に行かれたとき、その
教会の牧師に「あなたの結んでいる実を見せてもらいたい」
と言われました。そのとき牧師は「はっ」としたそうです。
わたしたちもキリストの前に立たされたとき、自分たちの
結んだ実を結んでおりたいものです。
では、実を結ぶためにはどうしたらいいのでしょうか。
それはヨハネ福音書15章5節から見ましょう。『わたしは
ぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたし
につながっており、またわたしがその人とつながっておれ
ば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れ
ては、あなたがたは何一つできないからである』。
つまり、実を結ぶためには、ぶどうの枝のように幹につ
ながって聖霊の液汁、つまり御霊の力を受けることです。
そうすればいつでもよき実を結ぶことができるのです。ど
んなに才能があっても、また立派な神学校を出たからと言
っても、それだけでは力ある働きはできません。何時も神
とつながり、神から御霊の力を受けてはじめてできるので
す。
そのために大切なことは、まずご臨在に近づいて礼拝生
活を大切にすることです。礼拝は神から御霊の力を受ける
ときです。イザヤ書40章31節に『しかし主を待ち望む者は
新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることが
できる。走っても疲れることはなく、歩いても弱ることは
ない』とあります。
そしてまた、祈りの生活を大切にすることです。祈りは
願い事をするだけではなく、神との霊的交わりのときです。
「忙しければ忙しいほど、多くのときを祈りに費やさなけ
ればならない」とありますが、これは宗教改革者マルチン
・ルターが言った言葉です。忙しいときは霊的魂の赤信号
のときです。ですから忙しい人ほど神に近づいて祈り、神
と交わって霊的力をいただいて行くことが肝要です。それ
でないと魂は枯れてしまいます。
そして最後に、『わたしから離れては、あなたがたは何
一つできないからである』(5節)。いまどんなにいい働
きをしているからと言って、神から離れては何もできませ
ん。もし現在、少しでもいい働きをしているなら、それは
言うまでもなく自分の力ではなく御霊の力による働きです。
ですから思いあがらないように気をつけて、へりくだって
お仕えしてゆきましょう。
わたしが教区の青年専門委員長をしていた関係で、近隣
の教会の青年たちがよくわたしたちの教会に出入りしてい
ました。そのなかでも隣の教会の青年はとても恵まれた人
で、こんな青年が自分たちの教会にいればいいのになと思
うほどでした。
ところが、ある集会の後に、その青年が「こんど日赤奉
仕団で奉仕活動をします」と話ましたので、「あなたがそ
のような奉仕活動に参加するのはいいことですが、どんな
に忙しくても礼拝だけは守りなさいよ」と注意しましたら、
その青年は「はい、わかりました」と元気な返事をして帰
っていきました。
それからしばらくして、町で会ったときは驚きました。
それはその青年の顔にかつてのような輝きがないのです。
そこで「あなたはこのごろ教会に行っていますか」と聞
きますと、「奉仕活動が忙しくて、なかなか教会に行け
ません」と答えました。しばらく教会から離れている間
に、魂に聖霊の補給ができなくて、くたびれ果ててしま
ったのです。そこで教会に行くように勧めて別れました
が、その後、教会に行くようになったようで、会ったと
きには少し明るい顔をしていました。 (Mar,11,2012)
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