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2012.4.29
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ペテロに対するイエスの愛




『イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい』。(ヨハネ福音書21章17節)



 今日はペテロに対するイエスの愛について話します。ガリラヤ
湖畔で食事をした後にイエスはペテロに対して、「わたしを愛す
るか」と声をかけられたのです。こんなことが三度も続いたので
ペテロはあることに気がつき心を痛めました。それはイエスが捕
えられて連行されたとき、ペテロはイエスの後をついて大祭司カ
ヤパの庭にもぐり込みました。

 そのとき、そこにいた人たちから、「あなたはイエスの弟子で
ある」と指摘されたとき、彼はイエスとの関わりを否定しました。
そんなことが三度あった後に鶏が鳴きました。そのときペテロは
あることを思い出して自分の弱さを知らされ涙を流したのです。
それはイエスがこれから十字架の道を歩まれることを話されたと
き、「わたしはどこまでもあなたに従っていきます」と答えまし
た。そのときイエスから、「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らな
いと言うであろう」と言われたことを思い出したのです。そこで
ペテロはこのときのことを思い出して自分の弱さ、不甲斐なさを
悲しんだのです。

 しかし、イエスはペテロに対して不甲斐なさを責めたのではな
く、新しい使命を与えるための愛の言葉だったのです。このこと
でペテロは立ち直りました。そして彼は西暦64年にローマにおい
てネロ皇帝のときにキリスト教徒に対する迫害事件の時に殉教を
したのです。彼がこのように立ち直ったのはイエスから赦された
からです。だれでも責められてばかりでは、いよいよ依怙地にな
りますが、赦されてはじめて本心に立ち直るものです。

 キリスト教徒は「赦しの福音」です。ヨハネ福音書3章17節に、
『神が御子を世に遣わしたのは、世を審くためではなく、御子に
よってこの世が救われるためである』とあります。つまりイエス
の来臨の目的はこの世を審くためではなく、この世を救うためだ
ったのです。

 昔、ある牧師がこんな話をしていました。青年が重い病気で入
院をしていましたので、訪問をされたところが、あまりにも暗い
顔をしているので見て驚きました。そこでいろいろと聞いてみる
と、ときどき宣教師が訪問にきて、「あなたは天国にいくために
は罪を告白して悔い改めなければなりません」と、来るたびに罪
の告白を求めるというのです。それが青年にとっては苦しくて、
すっかり暗くなってしまったというのです。

 そこで牧師が「十字架の贖い」の話をして、「イエスはあなた
の身代わりとなって罪を贖ってくださったのだから、イエスの十
字架を信じたら大丈夫だ」と話したところが、その青年は十字架
の福音贖いを信じて救われ、罪の自縛から解き放たれました。そ
して平安な明るい顔をして召されていった、と話をしておられま
した。罪を責めても救われません。

 ヨハネ福音書8章15節に『あなたがたは肉によって人を審くが、
わたしはだれも審かない』とあります。この8章はイエスのとこ
ろに姦淫の場で捕えられた女性が連れて来られたところです。そ
して群衆はイエスがこの女性に対してどんな審判を下すかを試み
たのです。もし「可哀相だから赦してやれ」と言うと、あなたは
律法を破るのですか、と言い、反対に「律法どおりに石で打ち殺
せ」と言えば、「あなたは愛を語っているのに、それでも愛の人
か」とまた責められるのです。どちらを答えても窮地に落とす恐
ろしい策略だったのです。

 そのときイエスの答えは『あなたがたの中で罪のない者が、ま
ずこの女に石を投げつけるがよい』でした。それを聞いた人はだ
れも女性を審くことができなかったのです。それは彼らがみんな
罪人であることに気がついたからです。これをみて女性は「ざま
あみろ」と思った事でしょう。

 ところがイエスから、『わたしもあなたを罰しない、お帰りな
さい。この後はもう罪を犯さないように』と赦されたときに、こ
の女性は悔い改めて本心に立ち返ったのです。それは審かれたか
らではなく赦されたからです。そしてこの後、イエスの信者とな
りイエスが十字架に掛かられたときも最後まで従いました。ヤコ
ブ書2章12節に『あわれみは、さばきに打ち勝つ』とあります。
子どもでも審いてばかりいたのでは、依怙地になり言い訳ばかり
したり隠しますが、愛され、赦されてはじめて悔い改めるのです。

 マタイ福音書18章に1万タラントを王から借金をした人の話が
あります。返済の期限が過ぎても返すことができないので王に哀
願をしました。すると可哀相に思った王は借金を全部ゆるしてや
りました。ところが王の家を出たところで百デナリを貸した人を
見つけたので、その人の首をしめて「借金を返せ」と迫ったので
す。それを聞いて王は大変立腹をしました。1万タラントを赦さ
れていながら僅か百デナリを赦すことができなかったからです。
神から赦されたわたしたちも、その恵みに感じて人々を赦す者と
なることが神の御心なのです。        (Apr,29,2012)