ペンテコステの結果
『五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、
一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌の
ようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上に
とどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせ
るままに、いろいろの他国の言葉で語りだした』。
(使徒行伝2章1節)
今日は聖霊降臨日といい、イエスの「エルサレムから離れ
ないで、父の約束(御霊)を待っているがよい」(1:4)と
のお言葉に従って、エルサレムに留まり祈っていた 120名
の者たちに聖霊がくだり、このイエスの弟子たちによってキ
リスト教会が誕生したのです。このときからキリストのご再
臨の時まで『聖霊時代』と言われ、今日に至っています。
さて、弟子たちが御霊に満たされた結果、大きな変化が起
こりました。その一つは、彼らは「大胆な人に変えられた」
のです。これまではイエスが捕らえられて十字架に掛けられ
たときから、こんどは自分たちにも迫害の手が伸びるのでは
ないかと恐れて、息を潜めていた人たちでしたが、御霊に満
たされてからは、なにものをも恐れないで大胆にイエスの復
活を証しするものとなったのです。
ユダヤ教の人たちはイエスの復活を認めませんでした。そ
して墓の番人に金を与えて、「亡骸は弟子たちが盗み出した」
と偽証させたほど 神経の使いようでした。何故なら、もし
イエスが復活したのが事実なら、自分たちはメシヤ(救世主)
を殺したことになるからです。
ところが、弟子たちはペンテコステの日に御霊に満たされて
からは、大胆にイエスの復活を宣伝したのです。24節に『あな
たがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこ
のイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのであ
る』。また32節には『このイエスを、神はよみがえらせた。
そして、わたしたちは皆その証人なのである』と大胆に語って
います。また、3章14節には『あなたがたは、いのちの君を殺
してしまった。しかし神は、このイエスを死人の中からよみが
えらされた。わたしたちはその事の証人である』と証言してい
ます。
このような大胆さは彼らが御霊に満たされた結果です。いま
でも御霊に満たされたら何者をも恐れない大胆な人になるので
す。あまり人前でものを言ったことのない若い娘さんが、「何
を語ろうか心配しないがよい。もの語るのは聖霊である」とい
う御言葉を信じて祈ったとき、教会員のみんなが驚くほど、大
きな声で、大胆に証しをしました。これも御霊の力によるもの
でした。
次に、ペンテコステの結果、みんな愛の人に変えられました。
そして自分たちのものを家から持ってきて共同生活をはじめた
のです。なかには裕福な人も、また貧しい人もいたことでしょ
う。でもたくさん持ってきたからといって威張ったりすること
なく、またなにも持って来れないからといって卑屈になること
もありませんでした。それは皆が御霊に満たされていたからで
す。
ガラテヤ書5章22節に『御霊の実は愛…』とあります。この
ように御霊に満たされたなら誰でも愛の人になるのです。その
反面、御霊に満たされないとケチになります。キルケゴールは
「愛は惜しみなく与える」と言いました。そしてイエスも十字
架に掛かって人類の罪の贖いのためにご自身の命を捨てたので
す。それに対して、有島武郎は「愛は惜しみなく奪い」という
題の小説を書いたことで有名な人です。この愛は自己中心的な
愛だから、なんでも自分の欲しいものは手に入れなければ気が
済まないのです。
次に、ペンテコステの日に御霊に満たされた結果、「すべて
の人に好意をもたれた」とあります。それはみんなが愛をもっ
て仲良く生活をしているのを見て、エルサレムの町の人々がそ
の生きざまに感動したからです。そして「その日に仲間に加わ
った者が三千人ほどあった」(41)とあります。これは素晴
らしい証しです。
最初に「クリスチャン」と呼ばれたのはアンテオケの教会の
人たちでした。彼らはバルナバの感化で「聖霊と信仰に満たさ
れた」恵まれた教会だったから、町の人から認められて尊敬を
もって呼ばれたのです。わたしたちも町の人たちから好意をも
たれるようなクリスチャンでありたいものです。
コリント後書3章2節には『すべての人に知られ、かつ読ま
れている』とあります。柘植先生は「クリスチャンはこの世の
すべての人から読まれる聖書だ」と語っておられます。そして
「この世の人は聖書を通してキリスト教のことは知らなくても、
クリスチャンの生きざまを見て、キリスト教とはこんないい宗
教だと想像するのです。ですから人々からキリスト教を誤解さ
れないような生き方をしなければなりません。
この世の人たちは、皆さんの生きざまを見ています。ある女性
が教会に来て「先生、驚きました。わたしが教会に行っているの
を知っているのでね」と話していました。話を聞くと、日曜日の
朝、すこし気分が悪いので礼拝を休んで台所で洗い物をしていた
ら、窓の外を通っていた人がわたしの姿を見て、「あら、今日は
日曜日ではなかったかしら」と言ったというのです。「先生、わ
たしはその人とは廊下ですれ違うときに軽く会釈を交わす程度の
人でしたのに、わたしが教会に行っているなんて、どうして知っ
たのでしょう」と言っていました。
(May,27,2012)
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