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2012.7.29
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  クリスチャンと呼ばれる
 




 『ふたり(バルナバとパウロ)は、まる一年、ともどもに教会
で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、
弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった』。     
                   (使徒行伝11章26節)

 このところは キリスト教の信者たちが、初めてクリスチャン
と呼ばれたところです。わたしたちはなにげなく「クリスチャン」
と名乗りますが、これは決して自分たちのほうから名乗ったので
はなく、二千年前にアンテオケの町の人々から付けられたあだ名
のようなものでした。それはアンテオケの教会の人々が大変恵ま
れていたので尊敬の意味をもって付けられたものなのです。

 このアンテオケは地中海沿岸の貿易都市で、外国貿易の拠点と
して繁栄した町でした。そしてパウロも都合三度の外国伝道の
ベースキャンプのようにして用い、教会のその度にパウロのため
に祈って送り出すような恵まれた教会でした。

 では、どうしてこんなに恵まれた教会になったのでしょうか。
前にも話しましたが、ステパノが石で打たれて殉教したのを契機
にキリスト教徒に対する迫害の手がエルサレム教会にまでもたら
されました。そのためにエルサレムの教会の信徒たちは迫害を逃
れて「ユダヤ、サマリヤ」の地方に散らされて行きました。そし
てまたその余勢をかつてアンテオケまで福音がもたらせられまし
た。

 19節『ステパノのことで起こった迫害のために散らされた人々
は、ピニケ、クプロ、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ
人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。ところが、
その中に数人のクプロ人とクレネ人がいて、アンテオケに行って
からギリシャ人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。そし
て、主のみ手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するもの
の数が多かった』とあります。

 そこでエルサレム教会からバルナバをアンテオケに遣わしまし
た。そしてバルナバはアンテオケ教会の現状を見て喜び、『主に
対する信仰を揺るがない心で持ち続けるようにと、みんなの者を
励ました』(24)このバルナバという人は、『聖霊と信仰とに
満ちた立派な人』(24)で、彼の感化により「主に加わる人々が
大ぜいになり」、恵まれた教会として発展していきました。そし
てこの教会の信徒の恵まれた、そして愛に満たされた麗しい人た
ちの姿をみて、「クリスチャン」と呼ぶようになりました。

 この「クリスチャン」とは、キリストに属するものと言った
意味で、尊敬をもって呼んだものです。ですからわたしたちが
「あの人はクリスチャンだ」と呼ばれたら、こんなに光栄なこ
とはありません。また「クリスチャン」と呼ばれたらこんな嬉
しいことはありません。その反対に「あれでもクリスチャンか」
と言われないように気をつけなければなりません。

 コリント第二の手紙3章2節に『わたしたちの推薦状はあなた
がたなのである。それはわたしたちの心にしるされていて、す
べての人に知られ、かつ読まれている…』とあります。つまり、
わたしたちがクリスチャンであることは「すべての人に知られ
ている」それは、わたしたちが「自分はクリスチャンだ」と名
乗らなくても、世間のひとたちは知っているのです。ですから、
どこから見られても主の良き証人になるように、いつも御霊に
満たされて、恵まれたクリスチャン生活を送りたいものです。


 キリスト教はある意味で「道徳宗教」「倫理宗教」だといわ
れます。それは神の前に真面目な潔い生きかたをモットーとし
ているからです。それは『あなたがたを召してくださった聖な
るかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて
聖なる者になりなさい。聖書に「わたしが聖なる者であるから、
あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからで
ある』(ペテロ第一書1章16節)とあります。つまりキリスト
教は聖い生きかたを求めているのです。それは神が聖なる方だ
からです。ですからわたしたちも御霊に満たされて、「さすが
にあの人はクリスチャンだ」と言われるような、聖められたク
リスチャンとなりたいものです。この聖い生き方こそクリスチャ
ンの力です。

 昔、イスラエルの『士師時代』にサムソンという士師がいま
した。彼は他の士師と違って一匹狼で一人でペリシテと戦った
大勇士でした。たとえばサムソンは道端に落ちていたロバの顎
骨でペリシテ人一千人を倒したという怪力無双の人でした。彼
の力の秘密は、生まれたときから「ナジル人」として育てられ
たからです。ナジル人は生まれたときから頭に剃刀を当てない
こと。また濃い酒を飲まないなど、聖い生活がその力の秘密で
した。

 ところが、ペリシテの女性デリラに心が引かれ、自分の力の
秘密を打ち明けてしまったのです。そして彼が寝ているときに
髪の毛を切られてしまいました。そしてペリシテ人が捕えにき
たとき、彼は麻縄を切って自由になろうとしましたが、それを
断ち切る力がありませんでした。そして無残に捕らえられて目
をえぐられ地下牢で牛のように粉引きをさせられたのです。こ
れは大勇士とも思えないような惨めな姿です。どうしてこんな
ことになってしまったのでしょうか。それはナジル人の聖さを
失ったからです。わたしたちクリスチャンの力も聖さにあるの
です。                 (July,29,2012)