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2017年2月19日

イエスの祈りのとき

 

 

『このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。(ルカ福音書6章12節)

 

 

 このところは、イエスが祈られたところです。5章16節にも「イエスは、寂しい所に退いて祈っておられた」とありますが、これはイエスの霊的力の充電の時だったのです。

いつの時代でも、大きな働きをする人、またリバイバルの器は祈りの人です。昔、アメリカの大衆伝道者であるビリーグラハムを大阪に迎え、プロ野球の当時近鉄バッファローズの日生球場を一週間貸切って「ビリーグラハム大阪国際大会」を催したことがありました。わたしも委員のひとりとして働きましたが、そのときビリーグラハム先生が「この大会の成功の秘訣は、一にも祈り、二にも祈り、三にも祈りだ」と語られたのを忘れることはできません。わたしたちが、どんなに立派に準備をしても聖霊が働かなければ空しいからです。

 

 クリスチャンの祈りは霊的力の充電のときです。そして霊的力が充電されたとき力ある働きをすることができるのです。旧約聖書のイザヤ書40章31節に、「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望むは新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」とあります。年若いから、壮年だからといって力は無限ではありません。無理をすると倒れることがあります。それは人間の力に頼るからです。しかし、神との交わり、祈り、神から霊的力をいただくと、いつまでも力ある働きをすることができるのです。「走っても疲れることなく、歩いても弱ることがない」人生です。

 

 いまから五百年前の1517年に、宗教改革をしてプロテスタント(新教)を興したマルチン・ルターが言った有名な言葉に、「忙しければ忙しいほど、多くの時を祈りに費やさなければならない」とあります。これは忙しいときほど魂が疲れるからです。また忙し過ぎると魂が滅びるからです。だから忙しいときほど祈って霊的力を充電していかなければならないという意味です。

 

 いま、どんないい働きをしていても、霊的力の充電を怠るとやがて力を失ってしまいます。ですから、忙しい人ほど祈るときを大切にすることが必要です。

 

 聖書の中に、あまりの忙しさのために腹をたててイエスに文句を言った人のことが書いてあります。それはルカ福音書10章38節以下に登場するマルタという女性です。ある日、ベタニヤ村の彼女の家にイエスとその弟子たちが訪問されたときのことです。この家は弟ラザロが奇跡的に生かされたということもありましたので、こころからイエスの一行を迎えました。ところが迎えたのはイエスだけではなく、弟子たち十二名も一緒でしたから、一度に十三名の客人を迎えて家中は大騒ぎとなりました。

 

 姉のマルタはイライラしてきました。そこで、ふと妹のマリヤのことに気がつきましたら、一緒に座って、恍惚としてイエスの話を聞いていたのです。その姿を見たときマルタは腹を立ててしいました。そこでイエスに「妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか」と苦情を言ったのです。本来なら、これは妹にいうことです。ところが「心をとりみだし」ていたので、その分別さえも気がつかなかったのです。

 

 そのとき、イエスは、「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ」と言われたのです。この「無くてならぬもの」とは、マリヤがしたように、主との霊的交わりです。そして、この霊的交わりが日常的になされているなら、霊的魂は恵まれて、こころ豊かな人生を送ることができるのです。

 

 神を礼拝することは、神を崇めることです。そしてこれは被造物(神に造られた者)として当然のことです。そして神はこのような者を愛して恵みを与えてくださるのです。また、祈ること、これは神に願い事をするだけではなく、神と交わることなのです。そして神から力を受けて、力強い人生を送ることができるのです。ですから、神と交わること、神を礼拝すること、神と交わることを大切にしてください。(2017.2.19