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2017年3月12日

敵を愛し、憎む者に親切にせよ

 

『しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな』。(ルカ福音書6章27節)

 

 

 このところは、聖書の黄金律と言われる箇所です。「黄金律」とは、広辞苑によると、「キリスト教倫理の原点である」とあります。確かに自分に敵対する者を愛したり、自分たちを憎む者に親切にしたり、自分を呪う者を祝福したり、辱める者のために祝福を祈るといったことは至難の業です。つまり、これは聖書のパラドックス(逆説)であります。

 

 でも、ローマ書5章5節に「わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」とありますように、神から賜る御霊の力によってすることができるのです。そして、そこに真の平安があるのです。

 

 旧約聖書の列王記下6章にスリヤの略奪隊がイスラエルの捕虜になった記事があります。彼らは毎年、収穫期が終わったころに北イスラエル王国に侵入し、農民が丹精した収穫物を略奪するので、イエスラエルには憎き存在でした。

 

 ところが、このときは預言者エリシャの計らいで、彼らを一網打尽、捕虜にすることができましたので、この際に日頃の恨みを晴らそうとしましたが、預言者はそれを許しませんでした。

「エリシャは答えた、「撃ち殺してはならない。あなたはつるぎと弓をもって捕虜にした者どもを撃ち殺すでしょうか。パンと水を彼らの前に供えて食い飲みさせ、その主君のもとへ行かせなさい」。

 

「そこで王は彼らのために盛んなふるまいを設けた」のです。おそらく捕虜たちは疑って、はじめはだれも食物に手が出せなかったのではないかと想像されます。しかし、空腹に負けて、死を覚悟して食べたところが無事なのを知って、彼らはたらふく食べました。

 

 その後、王は捕虜たちをスリヤの国境まで連れて行って釈放しましたので、彼らは喜んで帰り、王に事の次第を報告しましたので、王はイスラエルの取り扱いに感動して、「スリヤの略奪隊は再びイスラエルの地に来なかった」とあります。捕虜は殺されるか奴隷に売られるのが通例でしたので、この取り扱いは余程スリヤの王に感動をあたえたのでしょう。

 

 ローマ書12章17節以下に、「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限り、すべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ、自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。

 

 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を摘むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」とあります。

 

 もしこのとき、スリヤの略奪隊に報復しておけば、再びスリヤは新手の軍隊を送って報復に来たでしょう。「報復は報復を呼ぶ」だけです。昔、武士の社会でいちばん残酷なのは仇討ちだと言われています。自分の親が殺されたら、その仇を求めて諸国を尋ね、歩き仇をして歩くのです。ところが仇も名前を変え身分を隠して必死に逃げるので、仇を見つけることは至難の業だといわれています。そのうち路銀(旅用の金)も使い果たして、目的を果たさずに終わってしまうことの方が多かった、と言われています。

 

 運良く仇を見つけてその目的を果たしても、無事に自分の藩に戻っても、藩に召し抱えられるとは限りません。テレビドラマでよく仇討ちの場面をみますが、実際はそんなに多くはなかったそうです。

 

 では、わたしたちが敵対する者たちを赦し彼らを愛する根拠は、ヨハネ第一書4章10節以下に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛してくださったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」とあります。つまり、わたしたちが互いに愛し合う根拠は、「神がわたしたちを愛してくださったから」です。(2017.3.12