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2017年3月19日

あなたがたも慈悲深い者となれ

 

『あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう』。(ルカ福音書6章36節)

 

 

 このところは、聖書の黄金律のパートⅡと言われてるところです。前回にも話しましたが、「黄金律」とは、広辞苑によると、「キリスト教倫理の原点」であるとあります。

そしてここでイエスは、「あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ」と言っております。

 

 この「慈悲深い」とは、あわれみ、いつくしむ心を強くもっているありさま、また情け深いとあります。その根拠は「神が慈悲深いように」とあります。そしてイエスはこの世の弱い者、誰からも相手にされないというような見捨てられた人々に愛の手、救済の手を差し伸べられただけでなく、最後には十字架に掛かり、ご自分の命までも捨てて救いの道を開いてくださいました。このような神の愛、イエスの愛によって救いの恵みに与った者は、今度はまだ恵みを受けていない人々に、慈悲、つまり愛の手を差し伸べるのがわたしたちの使命なのです。

 

 次に、「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう」とあります。人を審くときは自分が正しいと思っているときです。もし自分も同じ罪人だと知ったら、だれも人を審くことはできなくなります。

 

 ヨハネ福音書8章に、姦淫の場で捕らえられた女性がイエスのところに連れて来られた記事があります。彼らは律法どおりに石で打ち殺してもいいですか」とイエスに言ったのです。そのときイエスは、「あなたがたのなかで罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われたとき、だれもこの女性に石を投げつける者はありませんでした。それは自分も罪人であったことを悟ったからです。

 

 その後、イエスはこの女性に対して、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われたのです。つまり、人を審くことのできる方はただひとり、神だけです。ヤコブ書4章12節に「立法者であり、審判者であるかたはただひとり(神だけ)であって、救うことも滅ぼすこともできるのである。しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか」とあります。つまり、人を審くことのできる方はただひとり、神だけです。

 

 最後に、「ゆるして下さったのだから」とあります。またエペソ書4章32節には、「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい」とあります。

 

 また、マタイ福音書6章14節には「あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さる」とあります。わたしたちが「主の祈り」をするとき、その中に「われらに罪をおかす者を、われらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」と祈ります。つまり神に罪の赦しを祈るとき、わたしたちが「われらがゆるすごとく」が前提となっていることに留意してください。

 

 マタイ福音書18章23節以下に、一万タラントの借金が赦された人のことが書いてあります。彼は莫大な借金の返済を迫られましたが、返済することができず、家族を奴隷に売られようとしました。そこで、その人は主人に哀願しましたので、哀れに思った主人はその借金を赦してやったのです。ところが、その帰り道、自分が百デナリを貸した人を見つけたので、その人を捕らえて、借金を返すまで獄に閉じ込めたというのです。それを聞いて主人は大変怒ったことは当然のことです。そして「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきでなかったか」と言っています。わたしたちも、神から絶大な罪を赦された者です。ですから、人の罪を審く資格はありません。わたしたちのすることはただ一つ、その人を愛し、赦すことです。(2017.3.19