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2017年3月26日

岩を土台とした人生

 

『それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似っている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである』。(ルカ福音書6章48節)

 

 

 このところは、イエスが「人生の土台をどこにすえるか」ということを話されたところです。ここに岩の上に土台をすえて建てた家と、土の上に土台なしに建てられた家を対照的に語っておられます。そして岩の上に土台をすえて建てられた家は洪水になり激流がきても、なんの被害もありませんでしたが、土のうえに土台なしに建てられた家は、激流がきたとき、たちまち倒れてしまったというのです。そしてコリント前書3章11節に「この土台はイエス・キリストである」とあります。

 

 わたしたちの人生も、いつも平穏無事とは限りません。いつ思いがけない災難に遭遇するかわかりません。そんなときでも岩であるイエス・キリストを土台としているならば、どんな試練に遭遇しても磐石としておられるのです。多くの人の人生の土台はなんでしょうか。努力することを惜しみ、安直な土の上に建てられているなら、危険なことこのうえもありません。岩の上に家を建てるということは、いろんな意味で苦労があると思います。しかしどんな人生の嵐が来ても恐れることはありません。ですから、みなさんの人生をイエス・キリストという土台の上に建ててください。

 

 1964年(昭和39年)616日に「新潟地震」が起こりました。新潟県北部沖を震源とするマグニチュード7.5の大地震で、家屋の被害2千戸以上、死者26人という記録があります。その当時、わたしは隣県の長野市の教会で働いていましたが、東京の教団本部から、「新潟に行って教会の被害状況を調査して報告するように」と指令を受け、地震の翌日に新潟に入りました。 鉄道が運行していませんので、新津から代行バスに乗り、市内は徒歩で入りました。まず新潟駅に立って驚きました。レールが飴のように曲がりくねり、地震の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。また駅前のビルが土の中に埋まり、一階が半地下のようになっていました。また少し郊外に移動すると、県営住宅のビルがまるでドミノ倒しのように倒れているのです。それを見たとき、小学校時代に「新潟市は信濃川の河口にある町で、長い間上流から流された土砂が堆積してできた三角州の上にできた町である」と教えられたことを思い出しました。まさしく聖書どおりだったのです。

 

 また、30年ほど前に仕事の関係で、ニューヨークを二度訪問しました。最初の訪問のとき、ケネディ国際空港で降り、迎えの車でニューヨーク市内に向かいました。すでに夜になっておりましたが、マンハッタン島に近づいたとき、あの高層ビルが所狭しと乱立している光景を見て圧倒されるような思いがしました。

 

 そして、こんなに高層建築物が乱立しているのに、よくも地盤が沈下しないものか、という疑問が起こりました。日本に帰って、ある書物を通して「マンハッタン島の地下には非常に大きな岩盤があり、その上まで杭をおろしているので大丈夫だということを知りました。やはり、聖書の「岩の上に家を建てる」ことの大切さを知りました。

 

 もう一つは、1995年(平成7年)117日の未明に未曾有の「阪神・淡路大震災」が起こりました。多くの家屋が倒壊したり焼失したりして、6500人ほどの人々が一瞬のうちに犠牲になりました。そして教会の周辺の木造住宅のほとんどが倒壊してしまいました。ただ教会だけが同じ木造建築なのに奇跡的に残されたのです。

 

 これは神のお守りがあったとは言うまでもありませんが、もう一つは、教会の建築の基礎が非常に堅固なものだったからです。講壇の後ろを広げて洗礼槽をつくるために基礎の一部を削岩機で削岩しましたが、業者が悲鳴をあげるほど頑強な基礎だったのです。そのために建物は少し南に傾きましたが倒壊は免れたのです。

 

 このように、建物のためには土台は大切なものですが、それと同様に、わたしたちの人生にも土台が大切です。そして聖書に「この土台はイエス・キリストである」とあります。イエス・キリストを信ずる信仰の上に人生を建てあげてください。そうすればどんなことが起こっても恐れることはありません。(2017.3.26