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2017年6月4日

聖霊降臨

 

『五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した』。(使徒行伝2章1節)

 

 今日は、ペンテコステの記念すべき日です。約二千年前にイエスのお言葉に従ってエルサレムに留まって祈っていたイエスの弟子たちや、信者たちの上に約束の聖霊が注がれた日です。そして聖霊に満たされた弟子たちを中心に初代教会が誕生したのです。つまりキリスト教会の誕生の日です。

 

 柘植不知人先生は、ご自分の聖霊体験を次のように語っておられます。1915年(大正4年)1010日の夜、堺の集会からの帰途、大阪の梅田駅の裏通りを汽車の時間の待ち合わせのため、歩きながら祈っておられたところが、突然、バケツ一杯の水を頭の上からぶっかけられたような感じになり身震いを覚えたそうです。その瞬間はなにが起こったのかわかりませんでしたが、やがて心の底から喜びがこんこんと湧きあがってきて、ハンカチで口を塞いでも抑えきれなかったそうです。そして神戸の自宅に帰っても一晩中溢れる喜びに満たされて朝を迎える経験をされました。これが先生の聖霊体験だったのです。それから先生はリバイバルの器として尊く用いられたのです。

 

 さて、弟子たちが聖霊に満たされた結果、彼らのうちに著しい変化が起こりました。そこで今日は三つの面からお話しします。その一つは、弟子たちは大胆になってイエスの復活を証しし始めたことです。それまではイエスを捕らえて十字架にかけて殺した者たちの迫害を恐れて、息を潜めておりましたが、聖霊の力に満たされた結果、大胆にイエスが復活されたことを証しする者とされたのです。

 

 

214節以下に、ペテロが立ち上がって大胆にイエスが復活されたと証ししています。23節「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらされたのである」。また32節にも「このイエスを、神はよみがえらせた。そしてわたしたちは皆その証人なのである」と語っております。このイエスの復活を語ることは大変危険なことでした。なぜなら、イエスの復活はイエスがメシヤ(救世主)であることの証だからです。そこでユダヤ教の指導者たちは、イエスが復活された朝、墓守に金をつませて「イエスの遺体は弟子たちが持ち去った」と言わせたほどでした。これほどイエスの復活に対して神経質になっていたユダヤ教の指導者に対して、イエスの復活を語ることは自分の身命に危険が及ぶことでした。でも彼らは恐れないで大胆にイエスの復活を語ることができたのは、聖霊に満たされたからです。

 

 わたしたちも聖霊の力に満たされたら、大胆に証しをすることができるのです。まだ「恥ずかしい」といった思いがあるなら、それはまだ聖霊の力に満たされていないからではないでしょうか。「よろしく御霊に満たされなさい」とあります。

 

 昔、長野の教会では、クリスマスに洗礼を受けた人が、クリスマスイブの讃美燭火礼拝のときに証詞をすることになっていました。そして、その年にふたりの青年男女が受洗しましたので、証詞をお願いしました。ところが女性の方はあまり人と話をしたことのない人で、話しても蚊の鳴くような声でしか話したことのない人でしたので、少し心配していました。

 

 案の定、集会がはじまる時間になってもその顔が見えないのです。そこでわたしは無理なことをお願いしたことを反省していましたが、時間になったので礼拝を始めました。プログラムが進み、証詞の時間になりましたがその女性の姿が見えません。そこでプログラムを変更して男性から証詞をしてもらいました。その証詞の終わりごろになって、玄関の方でけたたましい音がするのです。こんな荘厳な礼拝をしているのに喧しいなぁと思っていると、その女性が息をきって入ってきました。ちょうど男性の証詞が終わりましたので、「大丈夫ですか」と言いますと、「はい大丈夫です」と答えてくれいましたので、講壇に上がってもらいました。

 

 その女性は、しばらく黙祷をしていました。やがて大きな声で話しはじめましたが、その声で聴衆はみな一様に驚いていました。それは、その女性がこんなに大きな声で話すのを聞いたことがなかったからです。そして大胆に自分の救いの証詞をしてくれいました。

 

 集会が終わってその女性が「先生、遅れてごめんなさい」と挨拶されたので「よく、来てくれましたね。わたしはもうだめかと思っていまいした」と言いました。

 

 話を聞くと、証詞を引き受けたものの自信がなく、お琴の先生のところに相談に行きましたら、先生は聖書のマタイ福音書1019節の「彼らが、あなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうか心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである」というみ言葉を開いて、「このみ言葉を信じて祈りなさい」と教えられていました。そこで家に帰って、一所懸命に祈っていたら、いつの間にか眠っており、そして目を覚ましたのが集会が始まる7時だったので、急いで自転車を飛ばしてきたそうです。つまり、み言葉を信じて祈っていたときに、神は聖霊の力を与えて、驚くほど大胆に証詞をすることができたのです。

 

 第二に、ペンテコステの日に聖霊に満たされた結果、彼らは愛の人に変えられました。44節に「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみなの者に分け与えた」とあります。これは愛の共同生活です。ところが、ここに集まっていた人たちはいろいろな境遇の人たちでしたから、裕福な人も貧しい人もありました。だからといって、たくさん出したからといって威張る人もなく、また貧しいからといって卑屈になることもありませんでした。それは愛に満たされていたからです。ガラテヤ書522節に「御霊の実は愛…」とありますが、これは御霊に満たされたら愛の人になるということです。まだ損得の思いがある人、また出し惜しみをする人は御霊の愛に満たされていないからです。

 

 昔、有島武郎という小説家が「愛は惜しみなく奪う」という小説を書いたのは有名です。彼のいう愛は自己中心的な愛だからです。それに対してデンマークの思想家であるケルケゴールは、「愛は惜しみなく与えるという論文を書きました。この愛は神の愛、聖霊による愛です。そしてイエスも十字架に掛かって人類の贖いのために、ご自身の命を与えたのです。

 

 第三は、彼らは「すべての人に好意をもたれていた」(47)とあります。そして「その日に仲間に加わった人が三千人ほど」とあったとあります。それは聖霊に満たされた人たちの生きざまが、町の人たちにいい印象を与えたからです。コリント後書3章2節に「すべての人に知られ、かつ読まれている」とありますが、クリスチャンの姿はこの世の人に見られているのです。ですから、聖霊に満たされて潔い生活をしていれば、この世の人々から好意をもたれ、「わたしもあなたのようなクリスチャンになりたい」というようになるのです。

 

 先日、神学校からの帰りが遅くなり、新神戸駅に着いたのが午後九時過ぎでした。そこで駅前のタクシーに乗り、「下山手8丁目に行ってください」というと、「はい、わかりました」と、車を発車しました。ところが、しばらくすると、「スーパー・トーホーのところを下がればいいんですね」と言いましたので、「ずっと下におりてください」と言うと、運転手さんが「山手教会でいいんですね」と言ったので驚きました。わたしはただ「下山手8丁目」と言っただけなのに・…。そこで降りるときに「山手教会までよくお客さんを送りますか」と聞きますと、「はい、山手教会で降りる人はみな、品のいい人ですね」と言ったのです。わたしは嬉しくなりました。わたしは何も言わなくとも山手教会の人間だと知られていたことよりも、「山手教会の人たちは、みな品のいい人ですね」と言われたことの方が、はるかに嬉しいことでした。(2017.6.4