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2017年8月13日



モーセの執り成しの祈り

 

『あくる日、モーセは民に言った、「あなたがたは大いなる罪を犯した。それで今、わたしは主のもとに上って行く。あなたがたの罪を償うことが、できるかも知れない」。モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば―。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみ(いのちの書)から、わたしの名を消し去ってください」』。(出エジプト記32章32節)

 

 

 これはイスラエルの民が偶像礼拝の罪を犯したとき、モーセが「いのちの書」から、わたしの名を消し去ってもかまいませんから、わたしに免じて民の罪を赦してくださいと、自分の身命を投げ出して神に執り成した祈りのところです。

 

 その前に、先週「いのちの書」についてお話をしましたが、もう一度、復習いたします。「いのちの書」は聖書の中によく出てきますが、これは罪が贖われた聖徒の名前が記されたものです。イザヤ書4章4節に「生命の書に(名が)記された者は聖なる者ととなえられる」とあります。つまりイエスの十字架の贖いを信じて、罪が赦された者の名前が記されたもので、われわれクリスチャンにとっては大切なものです。これがなければ御国に入れません。

 

 

 次に、ヨハネ黙示録20章11節以下にキリストの審判のときがあるとありますが、これはヘブル書9章27節に「一度だけ死ぬことと、死んだ後に、審きを受けることが人間には定まっている」とあります。

 

 このキリストの審判のとき、二つの書物を開いて審かれます。一つが「かずかずの書物」で、もう一つは「いのちの書」です。前の「かずかずの書物」には、われわれの生涯の行状が書かれているのです。しかし、イエス・キリストを信じて救われた者は、それまでの過去の罪の記録が抹消されるのですから、なにも恐れることはありません。

 

 イザヤ書1章18節に『たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ』とあります。緋とは染色の二度染めのことで、これは色が落ちないように二度染めることです。それほど落ちないような頑固の罪でも、イエスの十字架の贖いを信じたら、之のように、また羊の毛のように白く、つまり罪がないようにされるというのです。

 

 次に、「いのちの書」ですが、これは前に言ったように、罪が贖われた聖徒の名前が記されているのです。もし審判のとき、いのちの書に名前がなければ大変です。十五節を見ると、『このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた』とあります。火の池とは、ひらたく言えば地獄のことでしょう。

 

 そして、黙示録21章27節には『はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである』とあります。このはいれる者はとありますが、これは次の22章に書かれている「新天新地」のことです。われわれクリスチャンの究極の目的は、やがてこの地上の生涯が終わったら、今度は天の御国です。そのために、いのちの書から名が消されることがないようにしなければなりません。

 

 

 さて、ここから本論です。イスラエルの民はエジプトの地で奴隷になっていましたが、モーセに導かれてシナイ半島を南下してシナイ山の麓にきました。そこで神から十戒が与えられましたが、モーセがいつまで待っても山から降りて来ないので、イスラエルの民は、もうモーセは死んでしまったに違いないと考え、アロンに「これからわれわれを導く神を与えよ」と求めました。

 

 そこでアロンは民の金の装身具を集めて金の子牛を造り民に与えました。そこで民は喜んでお祭りをしたのです。その喧騒がシナイ山の頂まで轟きましたので、それをご覧になった神は大変お怒りになり、イスラエルの民を滅ぼそうとされたのです。何故なら、つい先ほど十戒が与えられたばかりで、そのなかに、「刻んだ像を造ってはならない。…それにひれ伏してはならない」とあり、これは偶像礼拝を禁止したものです。

 

 

 そこでモーセは、イスラエルの民の赦しを祈ったのです。その祈りは「もしかなわなければ、どうぞ、あなたがしるされたふみ(いのちの書)から、わたしの名を消し去ってください」と、自分の身命を投げ出した祈りだったのです。この祈りに神は答えられたのでしょう。その後、イスラエルの民が滅ぼされたという記事は聖書にはありません。そして最後に、詩篇106篇23節に「しかし主のお選びになったモーセは破れ口で主の前に立ち、み怒りを引きかえして、滅びを免れさせた」とあります。(2017.8.13