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2017年11月19日


翼をはってのぼる生涯  

 

『しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない』。(イザヤ書4031節)

 

 

 29節に、『弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる』とあります。クリスチャンは常に主を待ち望んで、主から新しい力をいだいていく生涯であります。また、30節には『年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる』とあります。どんなに神の力に満たされている人、よいご用をしている人でも、また、どんなに若く元気な人でも、主を待ち望んで新しい力をいただいていかなければ、肉の元気だけでは、やがて疲れ果てて倒れてしまします。ですから、常に新しい力に満たされていくことが大切です。

 

 バッテリー(充電器)は使うばかりでは、間もなく役に立たなくなってしまいます。ですから、使った後は必ず充電をしておくことが大切です。その点、自動車のバッテリーはよくできています。バッテリーの電気でエンジンを動かすと、こんどはエンジンの回転を利用してすぐに発電し充電しているからです。これと同様に、人間も忙しく働けば働くほど主を待ち望み、祈って新しく力を充電していかなければなりません。

 

 マルチン・ルターは次のように言っています。「その日が多忙であればあるほど、多くの時を祈りに費やさなければならない」と。「多忙だから祈れない」、「大いに用いられるから祈りの時間がない」というのは間違いです。私たちは恵まれれば恵まれるほど、用いられれば用いられるほど大いに神に近づいて祈り、新しい力に満たされ、備えられていくことが大切です。

 

 マルコ福音書646節に、『そして群衆に別れてから、祈るために山に退かれた』とあります。神の子イエスでさえ新しい働きのために神と交わり、祈り、新しい力を待ち望む時をもっておられたのです。私たちもルターの言葉のように、「忙しければ忙しいほど」「用いられれば用いられるほど」神に近づき、神からの新しい力を充電して戴くように心がけなければなりません。それでなければ、やがてその働きも何の力もないものになってしまいます。

 

 ドイツにクラウムス・ヘームスという有名な説教者がいました。ある日、友人に自分がいかに用いられて、説教ばかりしているかを語ったとき、その友人は「君はそんなに人にばかり語っていて、いったい君自身はいつ、神から語っていただくのか」と反問され、大いに反省をし、神と交わることに一生懸命に力をそそぎ、いままで以上に素晴らしい説教者となったということです。私たちの働きは人間の力による働きではありません。神の力の働き、御霊の働きであります。ですから一層、神の力を待ち望んでいかなければなりません。

 

 上手に髭を剃る床屋はたびたび剃刀を研ぐといいます。ですから痛くありません。同様に大いに用いられようとする者、よい仕事をしたいと思う者はしばしば神と交わって、その力と導きを求め、その魂に磨きをかけ、霊的充電をしてもらう必要があります。他方、無精な庄屋は(もし仮にあったとすれば)余り剃力を研がないので、客は痛くてたまりません。それと同様に、あまり霊の剃刀を研がない人に導かれると、その人の説教を聞いても魂が痛くてたまりません。説教を聞いているうちに魂が傷だらけになってしまいます。これでは信者はたまったものではありません。

 

 ゴム紐も伸びきってしまうと、あとは切れるだけで役には立ちません。つまり弾力性があったはじめてゴム紐の役に立つのです。それと同様に、私たちの魂も疲れきって、伸びきってしまった状態ではもう役に立ちません。人を救う力も、感化することもできなくなってしまうのです。蛇もどくろを巻いているときが危険です。いつ飛びついてくるか分からないからです。でも長く伸びきった状態の蛇は、飛びかかる力もありませんから、なにも恐れることはありません。

 

 クリスチャンも霊的に疲れきって、伸びきった状態なら何の魅力も人を動かす力もありません。ですから、常に神と交わり、新しい力を待ち望み、活き活きとした状態でいつでも飛びかかれるどくろを巻いた蛇のようなクリスチャンでありたいものです。主は『しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない』と約束して下さっているのですから。いつも主を待ち望み、新しい御霊の力に満たされたクリスチャンとなりたいものです。クリスチャンに御霊の力がなくなると、効き目のなくなった塩のように、何の役にも立たず、外に捨てられ、人々に踏みつけられるだけであります。力があってはじめて人々を魅きつけ、尊敬され、人々を感化することができるのです。ですからいつも主に近づき、主を待ち望み新しい力に満たされていたいものです。(2017.11.19