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2017年11月26日


心の清い人たちは神を見る  

 

『心の清い人たちは、さいわいである。彼らは神を見るであろう』。(マタイ福音書58節)

 

 

 よく「神なんか存在するものか、ほんとうにいるのならここへ出してみろ。そうしたら信じてやる」と傲慢なことを言う人があります。しかし詩篇141節には『愚かな者は心のうちに「神はいない」と言う』とあります。この愚かな者とは罪人のことです。

心が罪に汚れているから神を信ずることができないのです。また神を見ることができません。それは神は聖なるお方だからです。ヘブル書1214節には『きよくなければ、だれも主を見ることはできない』とあります。

 

 キリスト教の信仰の特徴は「潔め」「聖なる生活」です。これが倫理宗教と言われるゆえんです。またこの潔い生活を送っているゆえに人々から尊敬され、信頼されているのです。

 

 三十数年ほど前のことになりますが、エイズが初めて問題になり日本中がパニックになりました。そして身に覚えのある人たちは検査をしてもらうため病院や保健所に駆け込みました。その頃、あるテレビ局の番組のなかで一人の評論家が、「これからはクリスチャンのような真面目な生き方をしなければいけませんね」と話しているのを聞いて身の引き締まるような思いがしたことがあります。

 

 また、五十七年ほど前になりますが、「六十年安保」という問題で日本が荒れた時がありました。わたしは神学校を卒業して東京のある教会で働いていましたが、その教会の青年たちもデモに参加し、国会議事堂を取り囲んで機動隊と衝突し、みんな放水でずぶ濡れになって帰ってきました。そんなとき国会のある委員会で安保のことを審議していましたが、ある代議士が「岸総理、この安保にはクリスチャンでも反対しているのをご存知ですか」と発言しているのを聞き、クリスチャンの生きざまが引き合いにだされているのを知り、その存在の重大さに今更ながら気づかされました。

 

 それはクリスチャンは潔い生き方をする者たちであるからです。その反面、クリスチャンが何か間違いを起こすと、「クリスチャンでもそんなことをするのか」と言われます。ですからわたしたちの生きかたを十分に留意することが大切です。

 

 では何故、キリスト教では「潔め」が強調されるのでしょうか。それは神の御心だからです。ペテロ第一書115節には『あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、聖なる者となりなさい。聖書に「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてある』とあります。この聖書の言葉とはレビ記11章45節のことです。

 

 またテサロニケ前書43節には『神のみこころは、あなたがたが清くなることである』とありますが、この清さにクリスチャンの力の秘密があるのです。クリスチャンがこの世の人たちとおなじような生活をしていたのでは、なんの魅力もありません。

 

 イスラエルの士師時代に士師として活躍したサムソンという怪力無双の男がいました。彼は獅子と格闘して八つ裂きにしたり、ロバのあご骨を武器にしてペリシテ人を一千人も殺したほどの人でした。その彼の力の秘密は、彼は生まれたときから「ナジル人」として育てられた、その清さにあったのです。ところが、ペリシテ人の女性に心を奪われ、自分の力の秘密を教えたため、まるで赤子のように捕らえられてしまいました。彼の力の秘密はその清さにあったのです。わたしたちもクリスチャンとしての力の秘密はその清さにあるのです。

 

 今日は世俗に汚れた不道徳な時代です。まるで神に滅ぼされたソドムのように思われます。そしてこの不道徳がともすれば教会の中にまでも入り込み、よほど身を律していなければ堕落をしてしまいます。こんなときこそクリスチャンの清めが大切なのです。そしてこれが防波堤であり、天国に入るためのパスポートです。

 

 では、どうすれば清くなれるのでしょうか。出エジプト記2937節に『すべて祭壇に触れる者は聖となる』とあります。文語訳聖書の言葉では『壇(祭壇)に近づく者はみな清くなる』です。これは神の臨在に近づくこと、つまり礼拝を守ることです。臨在に近づくとき御霊が清めてくださるのです。

 

 教会は製紙工場のようなところです。集められた古紙が製紙工場の裏から入ってきますが、いろいろな工程を経て製紙され、工場の表から出てくるときには綺麗な再生紙に生まれ変わっているのです。このように清められた心の状態に変えられるのが礼拝です。

 

 皆様も一週間、世俗のなかで悪戦苦闘をし、肉体だけでなく魂も疲れ果てて教会に来ます。そして臨在に近づき礼拝を守っている間に、魂が清められ、リフレッシュされ、再び一週間の戦いに出発していくのです。

 

 神戸は造船の街でした。この造船所は新しい船舶を建造するだけでなく、長い遠洋航海をしてきた船をドックに入れて船底についた貝殻を取る仕事もするのです。すると船底の抵抗が少なくなりスムーズに航行することができるのです。ところが貝殻をつけたままではそれが水の抵抗になって同じスピードで航行するためにはたくさんの燃料がいります。

 

 わたしたちも一週間、この世の世俗の中で生きていると魂に様々な罪や汚れの貝殻がついて苦労をしなければなりません。そこで恵まれた生活をするためには臨在に近づいて、みたまによって清められ、魂の貝殻を取り除いていただくことが肝要です。皆さん、今日もたくさんの貝殻をつけて来られたと思いますが、御霊によってすべての貝殻を取り除いて、身軽になってお帰りください。

 

 次に、ヨハネ福音書153節に『わたしが語った言葉によって既にきよくされている』とあります。つまりみ言葉によって魂が清めれてるのです。世俗的な雑誌を見ておりますと心が汚れますが、み言葉には魂を清める力があるのです。

 

 詩篇1199節に『若い人はどうしておのが道を清く保つことができるでしょうか。み言葉にしたがって、それを守るよりほかにありません』とあります。清い生活を送るためにも、日々み言葉に親しみ、清められた生活を送ってください。わたしたちは毎日欠かさずに食事をしますが、それは肉体を健康に保つためです。それと同様に、魂のために霊的糧が必要です。それがみ言葉です。肉体の糧を欠かしても力が入らなくなりますが、霊的糧を欠かすと魂がふらふらして弱ってしまいます。(2017.11.26