こころの貧しい人たちは
『イエスはこの群衆を見て、山に登り座につかれると、弟子たちはみなみもとに近づいてきた。・・・「こころの貧しい人たちはさいわいである。天国は彼らのものである。」』(マタイ福音書5章3節)
イエスは5章から7章まで山の上で群衆を相手にメッセージをされました。これを『山上の垂訓』と言います。その開口いちばんに『こころの貧しい人たちはさいわいである』と語られましたが、これは「謙遜な人」「へりくだった人」のことです。つまり天国は狭き門ですから謙遜な人、へりくだった人でなければ入ることはできません。これはクリスチャンにとって大切な心です。
アスグスティヌスは「人間にとっていちばんの美徳は謙遜です。第二も謙遜です」と言われたそうです。聖書の中にも謙遜、へりくだりという言葉がたくさんでてきます。たとえば、ヤコブ書4章6節には『神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う』とあります。またイザヤ書57章15節にも『いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕けたる者の心をいかす」』とあります。
つまり神はこのようなへりくだる者、謙遜な者を愛してくださるというのです。ところが人間はやたらと高ぶり高慢になります。それは神を畏れる心がないからです。
柘植不知人先生が救われて最初にしたのは、警察官に対する伝道でした。それはかつて行方不明になった妹を捜すために警察に言った時、どこの警察官も冷淡でまともに取り扱ってくれなかったという、苦い思い出があったからです。
そこで先ず警察官が救われなければと、ある日、神戸の相生橋警察署を訪ね、「自分はキリスト教の伝道者です。少しキリスト教の話をさせてください」と行きますと、奥から出てきた警察官が、やたらと宗教のことを話しはじめました。多少宗教のことを勉強しているらしく、「あの宗教の教理はこう…、この宗教の教えはこう…」とまるで立て板に水を流すように、得意になって話しだし、柘植先生が口を挟む余地もありませんでした。
そこでその人の話が終わるまで聞いていましたが、とりつくしまはなく、最後に聖書のみ言葉を一つ書いて辞しました。それはコリント前書8章2節のみ言葉でした。そこには『もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない』とあったのです。
数日後、再びその警察署を訪問すると、その警察官がやってきて、真先に「先日は失礼しました。知ったかぶりをして…。お恥ずかしいかぎりです。今日は先生のお話を聞かせていただきます」と言ったのです。さすが宗教のことを研究している人です。そのみ言葉の意味を悟ったのです。そして柘植不知人先生の話を聞いて救われました。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ありますが、よく実が稔っている稲穂は頭が低く垂れていますが、実を結んでいない稲穂は頭が高く突っ立っています。つまりよくできた人ほど頭が低く謙遜なのです。他方そうでない人は、ちょっとしたことでも自慢したり、高ぶります。よくあることですが、自分を高ぶり、自分の家族、親戚を自慢し、それもなくなると「息子の友人にこんな人がいる」自慢している人がありました。そしてとどのつまりは「自分の郷里にはこんな人が出た」自分とあまり関係がないと思われる人を引き合いに出してきて自慢した人がいました。そんなにまでして自慢したいものですかね。それよりも謙遜な人のほうが人間的には信頼できますし、人々の人望を得ることができます。
以前の教会に遣わされたとき、その就任式に市長さんから祝電をいただきましたので、それが披露されました。大勢の牧師たちが出席しておられましたが、自分たちの就任式に市長から祝電など貰ったことがなかったので、みんな一様に驚いておりました。
それは教会員に市の助役(収入役)をしている人がおられたからです。この人は地方銀行の本店長をしていましたが、市長に請われて助役になって市長を助けていたのです。そこである日、市庁舎に表敬訪問をしました。その人は助役室で仕事をしていましたが、その姿は教会で接するその人とは全く違うのです。教会では温厚な人、謙遜な人と思っていましたが、職場で接するその人は威厳をもっててきぱきと仕事をこなし、もってくる職員の書類に目をとおして印鑑を押し、次々と適切に指図をしているのです。
やがて仕事も一段落したとみえ、「先生、お待たせしました。こちらへお越しください」と市庁舎の奥のほうに案内されました。その部屋には「市長室」と表札がかかっていました。そして市長室で「市長、このお方は、このたびわたしたちの教会にお越しくださった牧師先生です」と丁重に紹介してくださったのです。すると市長が手を差し出して握手をしてくださり「N市のためによろしくお願いします」と挨拶をしてくださいました。わたしも祝電を頂いたお礼を申しましたが、このように市長としたしく挨拶を交わした牧師ははじめてのことのようでした。
しかしそれよりもわたしは、そのときに助役さんが言った言葉「このお方が、このたびわたしたちの教会にお越しくださった牧師先生です」と、その当時はまだ26歳の青年牧師で、自分の息子ほどの若者に対して紹介された丁寧な言葉に、「この人はほんとうに謙遜な人だなぁと教えられました。このようにほんとうに出来た人は謙遜な人です。
次に、イエス・キリストも謙遜な人でした。ピリピ書2章6節に『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固辞すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死にいたるまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた』とあります。これはイエスの謙遜の姿です。キリストは「神のかたちであられた」とあるように、天において「子なる神」であられたのです。その方が人類の罪の贖いを完成するためにあえて人間の姿(罪人の姿)になり、僕となって仕えてくださったのです。
コロサイ書3章12節に『あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい』あります。この「あわれみの心」「慈愛」「謙遜」「柔和」「寛容」はガラテヤ書5章22節にある「御霊の実」というところにあります。つまり御霊に満たされるときにこのような徳が備えられるのです。
―市庁舎の前で-
市長室を辞して玄関まで戻ってくると、そこに黒塗りの立派な車が待機していました。それを避けるように玄関をでようとすると、白い手袋をした運転手がドアーを開けて、「どうぞ」とジェスチャーをしましたので戸惑い助役さんの方を見ると、「どうぞ」と目で合図をしますのでその車に乗りました。運転手にこ「これはどなたの車ですか」と聞きますと「市長の専用車です」とい返事が返ってきました。やがて教会の前に着きますと運転手がまたドアーを開けてくれるのです。近所の人たちが見て驚いていました。
(2017.12.3)
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