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2018年1月14日

みことばのちから  

 

『わが魂はあなたの救いを慕って絶えいるばかりです。

 わたしはみ言葉によって望みをいだきます』(詩篇10981節)

 

 

 今週の117日で、阪神大震災の23年を迎えます。そこで、そのときのことを振り返って、あのとき聖書のみ言葉がわたしたちにとって大きな力、希望となったことを思い出します。

 

 17日の早朝646分の未曾有の揺れを経験しました。あまりもの揺れで教会が潰れてしまうのではないかと思うほどでした。壁は崩れ、窓ガラスは割れ、天井が落ちて無残な有様でした。さいわい建物の倒壊は免れましたが、あとで神戸市から全壊の判定を受けるほどの被害でした。事実、三度の傾斜で、これが木造建築でしたからなんとか倒壊を免れましたが、鉄筋コンクリートなら修復が不可能なところでした。

 

 早朝、教会の近所の人たちが教会に逃げて来られていました。家内が教会のお客さん用の布団を出して寝かしていましたが、この人たちは家が潰れ、道路にパジャマ姿で、履物もなく寒波の吹くなかを佇んでいたのを、娘たちが「教会に入ってください」と案内をしたようでした。皆さんは布団にくるまって寝ておられました。

 

 わたしが外に出ると前の道路に毛布にくるまった遺体があったので、「こんなところに置いておくのは可哀そうだから、教会に運んでください」と言うと、その後も瓦礫のなかから出てきた遺体を近所の人が、「山手教会へ」と運んで来るので、五体の遺体安置所となりました。その後、遺体は警察に連絡して引き取って貰いましたが、電気もガスも水道もない極限の状態のなかで、避難してきたこの人たちをどうお世話するかが問題でした。

 

 ところが、近所の人が、「この上の小学校が避難所になったから」と教えてくれましたので行ってみました。なんと電気は煌々と輝き、暖房も入っています。水道も言うまでもなく。そこで教会の避難者の皆さんにそのことを知らせ、三台の車でこの人たちを避難所に運びました。そこで、その晩は家族だけで教会を守って礼拝堂の中で一夜を過ごしました。

 

 翌日から、自転車で市内を走りまわり、教会員の安否を確認したり、彼らの必要の物を運んだりしていましたが、ある日、一人の教会員のかたが来て、「先生、御言葉で励ましてください」と言ってきたのを聞いて、わたしは目が覚める思いがしました。このような状況のときに、その人は、人間の励まし、慰めよりも、み言葉による力を求めたのです。人間、どん底の苦しみにあるとき、聖書のみ言葉がいちばん慰めになり、力になることを知ったのです。「わたしはみ言葉によって望みをいだきます」。どうぞ皆さんも、人生のどん底にあるとき、人の言葉や慰めではなく、み言葉に力を得てください。

 

20101013日に世界中が興奮するような出来事が起こりました。それは85日に南米のチリのサンホセ炭鉱で起こった落盤事故で33名の炭鉱夫が、地下700メートルに閉じ込められました。一時は絶望視されましたが、33名の無事が確認されて救出作業が行われましたが、人間が脱出するだけの穴を掘って救出するのには約五か月ほどかかるのではないかと言われていました。そんなに長い間、高温多湿の狭い空間の中で大丈夫かと心配していましたが、69日目に奇跡的に救出されたのです。

 

 わたしもテレビでその救出劇を見ていましたが、助け出された人は元気でした。そして、二ヶ月も狭い坑道の中でパニックが起こらなかったのが不思議に思いました。ところが、ある書き物を読んで、一つの答えを得たのです。それはオマールという年配の人が小型の聖書をもっていて、そのみ言葉を開いて「希望を捨てないように」と励ましたそうです。ですから、皆から「牧師さん」と呼ばれて信頼されていたそうです。

 

 この人たちも、文字通りどん底にあるとき、聖書のみ言葉が力となり、希望となったのです。ですから、わたしたちも何かあって苦しみのどん底にあるとき、聖書のみ言葉によって力を得てください。

 

 

震災後に山手教会で、礼拝のときに与えられたみ言葉

『このように、わたしたちは震るわれない国を受けているのだから、感謝しようではないか』(ヘブル書1228節)

『主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである』(エレミヤ書2911節)