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2018年2月4日



試練について  

 

『神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから、離散している十二部族の人々へ、あいさつをおくる。わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい』。(ヤコブ書11節)

 

 

 今日からヤコブの書簡をとおして学ぶように導かれています。この書簡は、エルサレムの初代監督ヤコブから地方に離散しているユダヤ人信徒に書き送られた書簡で、その著者はイエスの兄弟ヤコブと言われています。そこで、本題に入る前に著書であるヤコブについて少し学びたいと思います。

 

 イエスは処女降誕してマリヤより生まれましたが、その後、ヨセフとマリヤが正式に結婚して四人の男の子と姉妹たちが生まれています。(マタイ福音書1355節)

彼らは、初めはイエスの働きにはあまり理解できませんでしたが、ペンテコステの待ち望みの祈り会のメンバーの中に、その兄弟たちの名前がでていますので、イエスの働きを理解することができたようです。(使徒行伝114節)

 

 二千年ほど前のペンテコステの日に聖霊に満たされた人たちによってキリスト教会が誕生しましたが、その初代教会の監督に就任したのがヤコブでした。そして「エルサレム会議」を開いたりして初代教会のために大きく貢献しました。また彼は「潔めを求める敬虔な祈りの人で、いつも跪いて祈っていたので、彼の膝はラクダの瘤のようになっていた」と言われています。

 

 最後は殉教しましたが、その最期、キリスト教に反対する者から「キリストを否定せよ」と責められましたが、それを拒んだために、エルサレムの塔の上から突き落とされました。しかし、彼は今わのきわに何か呟いていたので、近づいてみると「父よ彼らを赦してください。彼らはなにをしているのか分からないからです」と、自分を迫害し殺そうとしている者の罪の赦しを祈っていたのです。これはイエスが十字架の上で最後に祈られた祈りでした。

 

さて、ヤコブ書は、真の信仰には、信仰の行いが伴わなければならないことを説いたものです。

12節に「あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである」とあります。この書簡の冒頭に、いきなり試練について書かれていますが、これは離散されたユダヤ人は、異国の地でさまざまな困難や試練に遭遇していましたので、励ましたものでした。試練とは広辞苑に「信仰の程度をこころみ試すこと」、「また、そのための苦しみ」とあります。

そして、これは神の愛から出たもので、子として取り扱っておられる証拠だとあります。

ヘブル書126節「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである」。また10節以下に、「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のために、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」とあります。

 

 次に、コリント前書1013節「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」とあります。この「のがれる道」とは逃げ道のことです。またトンネルの出口のことだと言った人がいますが、トンネルに入口があれば必ず出口がありますから、どんな困難、試練に遭遇しても、それを信ずる者は、耐えられるのです。

 

 創世記22章にアブラハムが神から試みられたところがあります。彼は百歳にしてようやく約束の子イサクが与えられました。ところが神は、「イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」と命じられたのです。ようやく与えられた子を神に献げるとは…。でもアブラハムは翌朝、「朝はやく起きて」従ったのです。そして、いままさに子を殺そうとしたときに、「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」と言って、代わりに献げる雄羊を与えなさったのです。これがのがれの道だったのです。つまり、神はアブラハムのときにも、試練と同時に逃れる道を備えていておられたのです。(2018.2.4