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2018年2月18日



語るにおそく  

 

『愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。』。(ヤコブ119節)

 

 

 ヤコブ書は、真の信仰は、信仰の行いが伴わなければならないことを説いたものですが、これはパウロの主張する「信仰による義」とは異なりますが、決して矛盾するものではありません。

それは、信仰によって義とされた(救われた者が)、こんどはクリスチャンらしく信仰の行いをすることだからです。

 

 まず最初に、「聞くに早く」とありますが、これは「相手が語るときは、相手の話をよく聞きなさい」という忠告です。ユダヤ人は元来、議論好きで理屈っぽいところがあると言われています。そして相手の話を黙って聞くことが下手だと言われています。そこで、相手の話をよく聞きなさい、と言ったのです。

 

 次に、「語るにおそく」とありますが、これは語るときは慎重に、後先を考えて語るようにとと言っているのです。なぜなら、いちど口から出たものは、後に戻らないからです。賢い人でも、慎重な人でも、言葉で失敗する人がよくあるからです。よく大臣が失言をして国会で問題になっていますが、ほんとうに賢い人は言葉に失敗のない人です。

 

 人間は自分の語った言葉に対して責任をもたねばなりません。マタイ福音書1236節~37節に「審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければ(責任をとらなければ)ならないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」とあります。だから軽率にものをいうのではなく、よく吟味して慎重にものをいうべきです。

 

 創世記を見るとエサウが軽率にものを言って取り返しのつかない失敗をしたところがあります。弟のヤコブは兄を出し抜いて長子の特権を奪ってやろうとかねてからそのチャンスを狙っていました。ある日、エソウが一日中、山を駆けめぐって疲れて帰ってきたとき、やこぶは自分のテントの前で肉のシチューを煮ていました。その匂いを嗅いだエソウは我慢ができなくなり、軽率にも、それを得るためにたった一杯の糧のために長子の特権を売ってしまったのです。これはあとで悔やんでもどうすることができないことでした。そこで、ヘブル書1216節に「一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい」とあります。

 

 イエスを十字架につけたとき、ユダヤ人は取り返しのつかない発言をしています。金曜日の早朝にローマの総督ピラトの裁判を受け、イエスに十字架の判決が出された後、ピラトは「この責任はわたしにはない」と手を洗ったのです。そのとき『すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」』。(マタイ福音書2725節)

 

 この一言のためにユダヤ人は世界中で長い間(約1900年ものあいだ)救世主(メシヤ)を殺したといって、世界中で迫害されてきたのです。ドイツのヒトラーもアウシュビッツでユダヤ人600万人を毒殺したのも、この一言が迫害の根拠となったのです。ですから、わたしたちは、自分の発言に充分気をつけなければなりません。箴言2511節に「おりにかなって語る言葉は、銀の彫り物に金のりんごをはめたようだ」とあります。

 

 最後に、「怒るにおそく」とあります。人間は罪人ですから、なにかあれば我慢ができなくなって、すぐに怒ります。しかし、「人の怒りは神の義を全うするものではない」とありますが、これは、神が喜ばれないことです。神は平和の神、赦しの神です。そしてまた、わたしたちも神から赦された者ですから、人を審くことはできません。

 

 若い頃のことです。ある出来事で、腹がたち眠れない晩がありました。そこで起き上がって相手に対して文句の手紙を書きました。そうしたら、少し落ちついて眠ることができました。翌朝、昨晩書いた手紙を読み返してみて驚きました。自分でも驚くほどの険しい手紙でした。こんなのをよく出さないで良かったと思いました。皆さんも何か腹が立つようなことがあっても、直ぐに何かをしないで、一晩寝たら気持ちが落ちつくことがあります。「怒るにおそくあるべきである」。

 

 旧約聖書に登場するモーセは、エジプトで奴隷だったイスラエルの民を導き出して、カナンの地に導いた人です。イスラエルのところが彼は、カナンの地に入ることがゆるされず、手前のピスガの頂きでその生涯を終えました。それは、彼が腹を立ててイスラエルの民に対して怒ったからです。イスラエルの民が水を求めたとき、神が「岩に命じなさい」と言われたのに、モーセは杖で岩を叩いたのです。しかも腹たちまぐれに二度までも、そこで「神の聖を現さなかった」と言ってカナンの地に入ることがゆるされませんでした。

つまり、神が赦しておられるのに、お前は審いたと…。(2018.2.18