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2018年4月8日

トマスに対するイエスの愛  

 

『十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸は閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」』。(ヨハネ福音書2024節)

 

 

  このところは、イエスがトマスに対して愛を示されたところです。墓から復活されたイエスは弟子たちの前に現われたとき、「弟子たち主を見て喜んだ」とあります。また二人の弟子たちが故郷に帰ろうとエマオ途上にあるとき、復活されたイエスが途中から同行されました。しかし彼らはそれがイエスであることに気がつきませんでした。ところが宿屋で一緒に食事をしているとき、イエスがパンを割いて弟子たちに与えている仕種をみて、その方がイエスであることに気がついたのです。そのとき弟子たちは目が開けて、それがイエスであることがわかったのです。そして彼らが、「お互の心が内に燃えたではないか」と言って、エルサレムに引き返してイエスと出会ったことを報告したのです。このようにイエスの復活は弟子たちに大きな希望と喜びを与えたのです。(ルカ福音書24章)

 

そこへトマスが帰ってきて、仲間たちの興奮している様子をみて、なにか自分だけが蚊帳の外におかれているような感じがして面白くありませんでした。そこで、「おまえたちはイエスの幻影を見たに違いない。ほんとうに復活されたイエスであるなら、その人の手にくぎを打たれた傷の跡があるはずだ。それを見たら信じよう」と言ったのです。

トマスは懐疑的な人だと言われています。「自分の目で見ないと信じられない」という人がありますが、これは決して理知的ではありません。よく「神なんかあるものか、あればここに出してみよ。そうしたら信じてやる」と横柄なことを言う人がいますが、彼らは決して理知的な人だから信じられないのではありません。罪人だから、また心が汚れているから、素直に信じられないのです。詩篇501節に「愚かな者は、心のうちに神はないと言う」とあります。この「愚かな者」とは、馬鹿者という意味ではなく、「罪人」という意味です。つまり、罪人だから、また心が汚れているから信じられないのです。ですから、神を信じられないことは決して自慢にはなりません。むしろ、自分は罪人だと恥じるべきです。そして、聖霊に満たされたら、神を信ずることができるようになるのです。

 

さて、イエスは八日目に再び弟子たちの前に現われ、トマスに手の釘跡をお見せになりました。これは不信仰のトマスに対するイエスの愛だったのです。トマスはその釘の跡を見てイエスを信じたのです。そのときイエスは、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」と、優しく言われました。そしてトマスはその後インドに伝道したようで、インドに聖トマス教会が今も現存しているそうです。

 

 神は、信じられない人には信じられるようにしてくださる方です。ある晩、教会員のお爺さんが電話を掛けてきて、「わたしは聖書の奇跡が信じられない」と言ってきたのです。話をしばらく聞いていると、聖書にはイエスが五つのパンで五千人の給食をしたとか、イエスが水の上を歩かれたとか、死んだ人を生き返らせたとか、どうしても信じられない、と言うのです。そこで「あなたが奇跡を信じられるように祈ります」と言って電話を切りました。それから、そのお爺さんのために祈りました。

 それからしばらくして、ある家庭集会のときに、そのお爺さんが「先生、奇跡が信じられるようになりました」と言ったのです。そして、次のように話してくれました。

夕飯のときに入歯を飲み込んでしまったので、ご飯を団子にして飲み込んだりしてもどうしようもありませんでした。部分入歯の鋭い金具が胃壁や腸に引っかかったら手術をしなければならないので、妻と一緒に必死で祈りました。すると二日後に出てきたというのです。それを見ましたが、よくも無事に出てきたと思いました。それから信仰がはっきりし、数年後に恵まれて天に召されました。(2018.4.8