本文へスキップ

message

2018年4月22日

ペテロに対するイエスの愛  

 

『イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。』(ヨハネ福音書2117節)

 

このところは、イエスがペテロに対して愛をしめされたところです。先週は弟子たちが思い煩って漁をしましたが、なんの収穫もありませんでした。ところが、イエスのお言葉に従って、舟の右の方に網を下ろしたところが百五十三匹というおびただしい収穫を得たのです。

ところが、彼らが陸に上がってみると、イエスが魚もパンも用意していてくださっていたのです。つまり、彼らの思い煩いは無駄だったのです。「主の山に備えあり」とありますが、神はわたしたちの必要なものは、みな備えていてくださるのです。

 

 さて、この食事の後でイエスはペテロに対して、「わたしの羊を養いなさい」と三度も言われたので、彼はあることを思い出して心を痛めたのです。それは最後の食事の後で、「どこまでもあなたに従います」と誓ったとき、イエスから「あなたは鶏が鳴くまえに(夜明けまえに)三度わたしを知らない(関係ない)と言うであろう」と言われましたが、イエスが大祭司の手のものに捕らわれとき、その後について大祭司カヤパの庭にもぐり込んだのです。ところがそこで、「あなたはイエスの弟子だった」と「イエスと一緒にいたのを見た」と言われたときに、「わたしは、あの人を知らない」「あの人と関係がない」と三度も否定したときに、夜明けの鶏が鳴いたのです。そしてペテロは自分の弱さを知ったのです。

 

 さて、ペテロがイエスから「わたしの小羊をやしないなさい」と三度言われたとき、彼はこのことを言われたと心を痛めたのです。しかしイエスはペテロの不甲斐なさを責めたのではなく、彼を赦して、新しい使命を与えようとされたのです。これはペテロに対するイエスの絶大な愛だったのです。そしてペテロは生涯イエスに従ったのです。西暦64年に起きたローマ帝国でのキリスト教徒の迫害事件のときも、彼は十字架に掛けられて殉教しました。しかもペテロは、「わたしはイエスを裏切ったものです。イエスと一緒の十字架に掛かるのは相応しくない」と、自ら望んで、逆さ十字架に掛けられたといわれています。

 

 主は、わたしたちが一度や二度、失敗しても、「お前のような者は駄目だ、信用ならぬ」とお見捨てになさるような方ではありません。「七たびを七十倍するまでにしなさい(赦しなさい)」とイエスが言われましたが、悔い改めるなら、どこまでも赦してくださる方です。キリスト教は「赦しの福音」です。ヨハネ福音書317節に「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」とあります。イエスは審判者としてこられたのではなく、十字架にかかってわたしたちの罪の贖いを成就するために来られたのです。

 

 ヨハネ福音書815節に、姦淫の罪を犯した女性がイエスのところに連れて来られました。群衆はイエスがどんな審きをするか、場合によってはイエスを律法違反として訴えることができると考えていたのです。ところがイエスは、彼らに対して「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われたとき、だれもこの女性に石を投げつける者はありませんでした。彼らは、自分たちも(種類こそ違えども)同じ罪人であったことを悟ったからです。罪人が罪人を審くことはできません。それだのに、何故人はすぐに審くのでしょうか。それは罪人だからです。

 

 イエスも「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と救われたとき、この女性は生まれ変わったのです。赦されたからです。人間はだれしも責められたり、批判されたりしても決してよくはなりません。ますます意固地になります。ところが、愛され、赦されるとき、北極圏の氷が太陽の熱で溶かされるように、頑な心も生まれ変わるのです。

 

 わたしたちも、神から罪赦された者です。ですから、人を責めたり、批判したりする資格はありません。ただ赦すことだけです。聖書のなかに、王から一万タラントの負債をゆるされた人がありました。ゆるされたことを大変喜んだのですが、間もなく百デナリを貸してまだ返してもらっていない人を見つけ、返済を迫りました。ところが返せなかったので、借金を返すまで獄に入れたというのです。これを聞いて王は、「一万タラントの借金をゆるされているのに、どうして百デナリの借金をゆるしてやれなかったのか」と立腹したという話があります。(マタイ福音書1821節)わたしたちも、神から赦された者として、今度はゆるす者となりたいものです。(2018.4.22