本文へスキップ

message

2018年5月13日

モーセの母の信仰  

 

『あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる』(箴言3130節)

 

 

 今日は母の日です。日本で母の日が祝われるようになったのは、今から70年ほど前(戦後)で、東京、渋谷にあるキリスト教系の学校、青山学院の女性宣教師がはじめて日本に持ち込んだものだと言われていますが、もともとは、今から百十年ほど前の1908年に、アメリカのバージニヤ州のウエストミンスターのメソジスト教会で始まったものと言われています。

 

 五月のある日、ひとりの女性信徒が胸にカーネーションをつけて礼拝に来られたので、その訳を聞くと、「今日は、わたしの母が召された日です。そこで母を偲んで礼拝を守ります」と言ったのです。その女性の母は、アンナ・ジャービス夫人で、その教会でとても恵まれた敬虔な信徒で、教会員の皆さんから大変尊敬され、慕われておられました。

 

 そこで、その教会では、その翌年から皆、胸にカーネーションをつけて礼拝を守り、記念するようになりました。それが次第に広まり、アメリカ中の教会で五月の第二聖日に母の日礼拝を守られるようになりました。そして、アメリカの国会で五月の第二日曜日を「母の日」の祝日と制定されたのです。

 

さて、今日は母の日に因んで、聖書に登場する三人の女性の話をします。まず第一に、モーセの母の信仰です。この時代は今から三千五百年ほど前で、イスラエルの民がエジプトの地で奴隷になっていた時でした。エジプトのパロ王はイスラエルの民が、過酷な奴隷という環境にも関わらず、ますます増加していくのに危惧し、これ以上人口が増えないように、エジプトの助産師に「もし男子が生まれたらその場で殺してしまえ」と過酷な命令を下したのです。しかし助産師たちは神を恐れて、その命令に従いませんでしたので、その計画は失敗しました。

 

 そこで王は、次に、奴隷の民に男の子が生まれたらナイル川に投げ込んでしまえと命令をしたのです。そんなときにレビ族の家庭に男子が誕生しました。しかし、お母さんは、その麗しいのを見て、殺すことを躊躇し、天幕の中に隠して育てました。しかし三ヶ月も経つと泣き声も大きくなり、これ以上隠しておけなくなったので、葦の舟(籠のようなもの)と作って、その中に入れてナイル川に流したのです。これは自分の手に負えなくなったので、せめて自分の目の届かないところで死んでくれれば、といったことではなく、川に流すということは神のみ手に委ねたのです。それは葦の舟に樹脂とアスファルトを塗ったことからもわかります。つまり、どこかで誰かに拾われたらという願いだったのです。つまり、これがモーセの母の信仰でした。聖書に「せん方尽きても望みを失わず」(コリント後書48節、文語訳)とあります。

 

 モーセが乗った葦の舟は静かにナイル川を下りました。その後を母に命じられたモーセの姉ミリアムが後をついで追跡しましたら、エジプトのパロ王の娘が水浴しているところに流れ着いたのです。そして拾い上げられて、パロ王の娘の子として、エジプトの王宮の中で育てられました。将来(八十年後)パロ王に歯向かって出エジプトの指導者となるモーセを、王の膝元のいちばん安全なところで育てられたのです。

 

 ここで教えられることは、どんなに、にっちもさっちも(二進も三進も。物事が行き詰まって、身動きがとれないさま)になっても、決して諦めたり、投げやりになってはいけないということです。それは、神は必ず助けてくれるからです。

 

 次は、サムエルの母ハンナの信仰です。このサムエルはイスラエルの祭司となり、宗教的指導者となった人です。その誕生の由来は、ハンナにはまだ子どもが恵まれませんでしたので、毎日教会で祈っていました。ところが、朝早くから祈っていたので、唇が動くだけで声が聞こえなかったのです。それを見た祭司エリは、女性が酒で酔っているのだと思い、「いつまで酔っているのか、酔いをさましなさい」と注意したところが、彼女は「わたしは酔っているのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出して祈っていたのです」と答えました。真相を知ったエリはハンナに、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願を聞き届けられるように」と祝福しました。そして生まれたのがサムエルだったのです。つまり母ハンナの涙の祈りによって与えられた子どもでした。詩篇68節に「主はわたしの泣く声を聞かれた。主はわたしの願いを聞かれた。主はわたしの祈をうけられる」とあります。わたしたちも祈るとき、涙が流れるほど真剣に祈るならば、主は必ずわたしたちの祈りに答えてくださるのです。

イエスの母マリヤの信仰は紙面の都合で割愛します。(2018.5.13