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2018年5月20日

ペンテコステの日に  

 

『五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した』(使徒行伝21節~)

 

 

 

 イエスが墓から復活されてから五十日目の五旬節の日に、エルサレムで祈っていた120名の者たちの上に聖霊が降ったのです。これはイエスがかねて弟子たちに「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ福音書1416節)とお語りになった約束の御霊だったのです。そして、「それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」と言われました。そしてこの日、聖霊が下った一同は聖霊時代となり、初代教会が誕生しました。

 

 さて、この日に聖霊に満たされた結果、教会がどのように変わったのか、今日はそのことを話します。まず第一に、彼らは大胆な人になりました。それまでは、イエスを捕らえて迫害した者の手が自分たちにも及ぶのではないかと恐れて家の奥に息を潜めていましたが、聖霊に満たされた結果、彼らは大胆になり、堂々とイエスが復活されたことを宣伝しはじめました。

 

 223節をみると、「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである」と。また32節には「このイエスを神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである」と語っています。

 

 そして極めつけは、314節以下の「あなたがたは、この聖なる正しいかたを拒んで、人殺しの男をゆるすように要求し、いのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中からよみがえらせた。わたしたち、その事の証人である。そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見ているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼らをあなたがた一同の前で、このとおり完全に癒したのである」と言っています。ユダヤ教の宗教家の前で、彼らをこのように大胆に語らせたのは聖霊の力です。聖霊は人を恐れなく大胆にします。ですから、わたしたちも聖霊に満たされて、大胆に主を証しする者とされたいものです。日曜日に教会に行く途中で近所の人に出会い、「奥様、こんな早くからどこに行かれるのでしょうか」と言われたときに、持っていた聖書を後ろに隠し、「はい、ちょっとそこまで…」というようでは駄目です。「はい、これから教会に行きます」と大胆に答えるようなクリスチャンとなりたいものです。それには聖霊に満たされることです。

 

 次に、聖霊に満たされた結果、彼らは愛の人に変えられました。44節には「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた」とあります。これは愛の共同生活です。ここにはたくさんの物を持ってきたからといって高ぶる者はなく、また少ししか持ってこれなかったからといって卑屈になる者もありませんでした。それは彼らが聖霊に満たされたからです。

 

 ガラテヤ書522節に「御霊は愛」とあります。わたしたちも聖霊に満たされたら愛の人になります。キルケゴールが「愛は惜しみなく与える」と言いましたが、イエスも十字架にかかり尊い命を捨て、わたしたちの罪の贖いを完成するために尊い血潮を最後まで、一滴残さず流してくださったのです。これに対抗して、明治時代の小説家、有島武郎は「愛は惜しみなく奪う」という小説を書きました。この愛は罪人の愛です。

 

 三番目に、聖霊に満たされた結果、「神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた」(47節)とあります。それは、彼らが聖霊にみたされて、恵まれていたので、街中の人から好意をもたれていたのです。そして「その日、仲間に加わったものが三千人ほどであった」(41節)とあります。わたしたちの信仰生活も自己満足ではなく、すべての人から好意を持たれるようなクリスチャンでありたいものです。

 

 柘植不知人先生のペンテコステは、1915年(大正4年)1010日に大阪駅の裏通りで、祈りながら歩いていたところが、俄然、頭の上からいきなり、バケツ一杯の水をぶっかけられたような身震いがしたそうです。その後、抑えきれないような喜びが、心の底からこんこんと湧き出てきたのです。これが柘植先生の聖霊降臨(ペンテコステ)だったのです。そして先生はリバイバルの器として、神から尊く用いられたのです。(2018.5.20