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2018年5月27日

人をさばくな  

 

『兄弟たちよ。互に悪口を言い合ってはならない。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、律法をそしり、律法をさばくやからである。もしあなたが律法をさばくなら、律法の実行者ではなくて、その審判者なのである』。(ヤコブ411節)

 

 

 

 今年の新年から「ヤコブ書」を通して、そのみ言葉を学んできましたが、4月から5月にかけて教会歴にちなんで、受難、復活、そして聖霊降臨を学びました。そこで今回から再びヤコブ書に戻って学んでいきます。

 

 初めにも話しましたが、ヤコブ書は地方に散らされているユダヤ人の信徒に向けて書き送られた書簡で、この書簡の本旨は、「真の信仰には、信じるだけではなく、信仰の行いが伴わなければならない」と説いたものです。

 

 次に、この書簡の著者は、イエスの兄弟ヤコブです。イエスはマリヤより処女降誕した人ですが、その後、マリヤは許嫁のヨセフと正式に結婚し、二人の間に数名の子どもが生まれました。そのいちばん上の子どもです。マタイ福音書1353節以下をみると、彼らの名前がわかります。彼らは、初めはイエスの公生涯(伝道生涯)が理解できず、家に連れ戻そうとしてきた様子が記されています。

 

 しかし、イエスの十字架、復活の気高い姿を見たときに、イエスに対する見識が変わり、ペンテコステの待ち望みの祈り会の120名のものたちのリストのなかに、「イエスの母マリヤと、その兄弟たち」と名前がでてきます。そして10日後に弟子たちと一緒に聖霊に満たされ、恵まれたクリスチャンとなりました。

 

 そして、いちばん上のヤコブは初代教会の監督になっています。そして、いちばん大きな働きはパウロの海外伝道によって生まれた異邦人(外国人)の割礼問題を解決しています。また彼は、潔めを求める敬虔な人だったようです。その最後は、ユダヤ教の人たちに迫害され、エルサレムの塔の上から突き落とされて殉教しました。その彼は、最後に「父よ、彼らを赦してください。彼らはなにをしているのか分からないからです」。と祈っていたそうです。おれはイエスが十字架上で祈られた言葉と同じです。

 

 ここで「互に悪口を言うな」「人を審くな」とありますが、イエスも「人をさばくな、自分がさばかれないためである」(マタイ福音書71節)と言っておられます。それなのになぜ審くのでしょうか、それは、自分は正しいと思っているからです。本当に自分も同じような罪人としての自覚があれば、人を審くことはできないはずです。

 

 ヨハネ福音書8章に姦淫の女性をイエスのところに連れてきた話があります。そしてイエスにこのような女性をどう審いたらいいかと言ったのです。ところがイエスが「あなたがたの中で、罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」と言われたとき、誰ひとりこの女性に石を投げる者はありませんでした。人々は、この女性のような罪ではなくても、自分も罪人であることに気がついたからです。そしてイエスも、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」と言われたのです。イエスも「あなたを罰しない」と言われたのは、罪人だからということではなく、イエスこそ救い主だからです。審きは神がなさるおとです。ですからイエスは審かなかったのです。

 

 イエスも十字架にかかってわたしたちの罪を贖って(赦して)くださいました。ですから、わたしたちは赦された者として赦すのです。間違っても審いてはなりません。審きは神の領分だからです。敵や迫害する者を赦す力は聖霊にあります。聖霊の力に満たされたときに、愛し赦す力が神から与えられます。

 

 モーセという人は、「その柔和なこと、すべての人にまされり」と言われたほどの人でした。ところが、彼は120歳の生涯の最後に取り返しのつかない失敗をしました。それはチンの荒野でイスラエルの民を審いたことでした。それは荒野で水がなくなったので、民衆はモーセに水を求めました。そこで、モーセは神に祈ったら、神は「岩に命じて水を出せ」と言われたのです。そこでモーセは民衆を集め、その前で杖で岩を二度叩いたところが岩から水が出て、民はそれを飲んで助かりましたが、モーセは神に審かれてカナンの地にはいることができなくなりました。それはモーセが民を審いたからです。神が命じたのは「岩に命じること」でしたが、彼は腹を立てて岩を叩いたからです。しかも二度までも、そこで神から「イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さないかった」から、カナンの地に入ることが出来なくなりました。この「聖なること」とは、神がイスラエルを赦しておられるのに、モーセがイスラエルを審いたからでした。あれほど柔和な人と言われた人なのに…。「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(民数記123節) (2018.5.27