本文へスキップ

message

2018年7月8日

 

 

 

クリスチャンの潔めについて  

 

『むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである』。(ペテロ第一の手紙1章15節)

 

 

 今日はクリスチャンの潔めについて話します。15節に「あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい」とありますが、クリスチャンがこの世の人と違うのは、潔められた生きかたをしているからです。そして16節には、「わたしが聖なる者であるからあなたがたも聖なる者になるべきである」とあります。つまり、聖書の神は聖なる神です。ですから、わたしたちも聖なる者となってはじめて、神のみ心に適うのです。

 

 クリスチャンのいのちは「潔め」であります。潔めがあってはじめて人々から尊敬されるのです。また信頼されるのです。潔めを失うなら、塩気を失った塩のようになんの役にも立たず、外に捨てられるだけです。

 

 もう340年も前になりますが、エイズという問題がはじめて報道されたとき、日本中が騒然としました。そして心に覚えがある人たちが保健所に殺到したそうです。そんな最中にテレビでエイズの問題について特別番組が報道されていました。その中で、ひとりのパネラーがこんな発言をしているのを聞いて驚きました。それは「これからは、クリスチャンのような真面目な生きかたをしなければなりませんね」と。世の中の人々は、クリスチャンをこのようにみているのだと、初めて心を律する思いがしました。

 

 潔めについて語ったみ言葉は聖書の中にたくさんあります。その中からいくつか書き出してみますと、

コリント後書71節には「肉と霊とのいっさいの汚れから自分をきよめ、神をおそれて全く清くなろうではないか」とあります。

詩篇243節には「主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。手が清く、こころのいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である」とあります。この「主の山に登るべき者」、「その聖所に立つべき者」とは、神の前で(神殿で)神に仕えて奉仕をする者のことで、「手が清く、心のいさぎよい者」とは、行いがよく、潔く汚れのない者ということです。

 イザヤ書5211節には「主の器をになう者よ、おのれを清く保て」とあります。また、テモテ後書221節には「もし人が卑しいものを取り去って自分を清めるなら、彼は貴いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる」とあります。これは文語訳では「清められて、主の用に適い」とあります。つまり、御霊に満たされ、潔められてはじめて主の用に適う者となるのです。

 テサロニケ前書43節には「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」とあります。最後に、ヘブル書1214節には「自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」とあります。

 

 昔、「皇室の素顔」という本を読みました。これは皇室評論家が、天皇家の日常生活を書いたもので、二重橋の奥の皇居の生活を興味をもって読みました。この天皇は昭和天皇のことですが、朝はいつも六時に起きられても七時まで部屋から出てこられないそうです。早く目が覚めたからといって部屋から出てくると、お付きの人たちがあわただしくなるからです。そのように回りの人たちに配慮をしておられるのです。

 また、顔は自分で洗われ、髭もご自分で剃られるのだそうです。そのためところどころに剃り残した髭が残っているときがあるそうです。しかし、公務のときはお付きの人がきれいに剃るそうです。その他にも、新聞は朝日、毎日、読売の三大新聞に目を通されているとか、いろいろと興味をそそるようなことが書かれていましたが、特に興味をもったのは、テレビの番組のことです。

 天皇はご自分でチャンネルを回してご覧になるそうですが、それは、NHKのニュースと朝の連続ドラマ、そして大相撲、これは大好きで、いつもテレビの前にどーんと座って見られるそうです。そしてもう一つ、それは皇室アルバムをご覧になるそうです。自分でチャンネルを回せるので、なんでも好きな番組をご覧になられるのに、それ以外をご覧になられないのは、自分は日本国の象徴であり、国民統合の象徴であるから、(日本国憲法第一章第一条)、下世話なものは見ない、ということです。わたしたちは「神の皇太子」です。ですから、この世の人たちと同じような生きかたをしていたのでは駄目です。クリスチャンらしく、清い生きかたをしていきたいものです。(2018.7.8