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2018年9月23日

悔い改めについて  

 

『時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。アブラムはなお進んでネゲブに移った』。(創世記127節~)

 

 

 8月の終わりから「恵まれたクリスチャン生活を送るために」というシリーズで話してきました。まず第一回は、「神との正しい関係を持つこと」と題して、礼拝生活を大切にする事を学びました。次は「祈りつづけなさい」と題して、神との霊的交わりを大切にすること。そして三回目は「み言葉を宿らせなさい」と題して、日々の生活をみ言葉に養われる生活を送ること。そうすればサタンの誘惑にも打ち勝ち、力強い人生を送ることが出来る、と話しました。そして前回は「神のことを第一に」と題して、神のことを第一にしておれば、恵まれた信仰生活を送ることができることを話しました。

 

 さて、今日は「悔い改め」について話します。悔いることと、悔い改めることは自ずから異なります。広辞苑を開いてみると、「悔いる」とは、自分のしたことに対して、そんなことをすべきでなかったと、後悔をすること、とあります。また「悔い改め」とは、神に対して罪を悔い、心を改めて霊的生活によみがえる誓いをすること、とあります。そして、悔い改めは信仰生活の第一歩です。この悔い改めをなくして信仰生活はありません。

 

 そこで先ず、アブラムの悔い改めについて話します。彼は神に導かれてハランの地からカナンの地に移住しましたが、その地に着いてまず最初にしたことは、「祭壇を築いて、主の名を呼んだ(神を礼拝した)のです。彼らは遊牧民ですから、よい草のあるところ、水のあるところを転々としていました。そこでアブラハムは定住するためにテントを張ったところに、石で祭壇を築いて神を礼拝したのです。

 

 ところが、その地が飢饉になったので、アブラムは食料を求めてエジプトに移住しましたが、少し心配なことが起こりました。それは自分の妻サライが美人だったので、そのために自分が殺されるのではないかと心配したのです。そこで彼は、妻サライを妹だと言ったのです。確かに彼女は母親の違う異母兄弟ですので、まんざら嘘ではなかったのですが、こんな姑息なことで自分が助かろうとは情けないことです。どうしてこんなことになったのでしょうか。それには9節を見ますと、「アブラムはなお進んでネゲブに移った」とあります。これまでの文脈だと、「そこで彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ」とありそうなものですが、ネゲブではどうしたのか、祭壇を築いて神を礼拝した形跡がないのです。これがアブラムがエジプトで不信仰になった原因と考えられます。

 

 さて、サライが彼の妻であることが分かってエジプトの地から追い出されましたが、その後、アブラムがとった行動を見たいと思います。133節「彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」とあります。この所は、12章のエジプトに移住する前に、最後に礼拝したところです。つまりアブラムは最後に礼拝したところに帰って、留守の間に崩れた祭壇を築き直して、そこで礼拝をしたのです。このときの礼拝は悔い改めの礼拝だったのです。この悔い改めがあったから、この後のアブラムに神の祝福があったのです。もしエジプトで不信仰の失敗をしたとき、悔い改めることなく他のほうに行っておれば、その後の生涯はなかったでしょう。やはり、神から離れ、神に背いて罪を犯したとき、悔い改めて神に立ち返ることが大切です。そして神も悔い改めて帰るものを赦して迎えてくださるのです。

 

 イザヤ書4422節には、「わたしはあなたのとが(あやまち)を雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」とあります。

 

 ルカ福音書15章にイエスが語られた「放蕩息子」の話があります。父から財産を貰った息子が、他国で一旗揚げようと家を出ましたが、放蕩して使い果たしてしまいました。どん底に行き詰まった息子は他国でのたれ死にするよりも、父の家にはたくさんの雇い人いるから、そのひとりにでも雇ってもらいたいと家に帰ってきました。

そこを遠くから見ていた父親は駆け寄り、抱いて迎えたのです。そのとき息子は「わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」と言いましたが、父は彼に着物を着せて、指輪をはめ、履物を履かせたのです。父は放蕩息子が悔い改めて帰ってきたので喜んで迎えたのです。そして、これが神の愛です。神は悔い改めて立ち返るものを赦して迎えてくださるのです。(2018.9.23