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2018年11月18日



臨在信仰について

『そこで、イエスが立って彼について行かれると、 弟子たちも一緒に行った。するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、心の中で思っていたからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた』。(マタイ福音書919節~)

 

 

 今日は「臨在信仰」について話します。どんな悩みや問題のときも、また病気のときも、神の臨在に近づくときに解決をするのです。

 

 ここに登場する女性は十二年間もの長い間、病のために苦しんできました。そして医者や薬のために財産を使い果たしてしまいましたが、病気は一向によくなりませんでした。そこで最後の望みとしてイエスにお頼りする以外に助かる道はありませんでしたが、イエスの周りには弟子たちや、大勢の群衆が取り巻いていたので、イエスに近づくことはできませんでした。たとえ近づけても、皆の前で「わたしのこれこれの病気を癒してください」と言う勇気もありませんでしたので、そっと近づいてイエスの衣のふさをさわったのです。

 

 それは「み衣のふさにさわりさえすれば、なおしていただける」と信じたからです。

この「ふさ」は、民数記1537節に「代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青いひもで、その四すみにつけさせなさい」とありますが、神聖なものとされていました。そしてパリサイびと(律法を厳格に実践する人たち)は、このふさを大きく作ることによって、宗教的熱心さを誇示しようとしました。そこでイエスは、マタイ福音書235節で、「そのするところは、すべての人に見せるためである。すなわち、彼ら(パリサイびと)は経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし…」とあります。

 

 この女性がイエスの衣のふさにさわったとき、イエスは自分の身からなにか力が出たように感じました。そこで振り向くと、そこに女性がいるのをみて、その女性に「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救った」と声を掛けられました。すると、その時に女性の病気が癒されたのです。それはイエスの臨在に触れたからです。「わが臨在、汝を癒せり」とありますが、臨在に近づくときに病も癒され、問題も解決されるのです。

 

 こんな話があります。大学の教育学部を卒業した女性が、小学校の教員として県境の分校に赴任しました。まだ若い二十歳すぎの、身体も華奢(きゃしゃ)な女性でしたので心配しましたが、彼女は頑張り屋で、元気に赴任していきました。しかし、数ヶ月後に、授業中に教壇の上で倒れてしまったのです。病名は脳腫でしたので、名古屋の名大病院の脳神経外科に入院して手術を受けました。

 

 ところが、医師は「もう一回手術をしなければならないが、その結果はどうなるか分からないので、会わせたい人があるなら、それまでに会わせておいた方がいい」と言われました。そこでわたしも病院に駆けつけました。手術をした頭は白い包帯で包まれていましたが、苦しそうに、若い娘がところかまわず胸をはだけるのです。でも、わたしが来たことが分かったように喜んでくれました。そして「先生、ありがとうございます」と言おうとするのですが、言語障害で、「せ」という一言がなかなか出てこないのです。随分長い時間をかけて、やっと「せ」と言えたと思ったら、次の「ん」の言葉がなかなか出ないのです。そこでわたしは「もうあなたの言いたいことはわかったから」と止めました。

 

 それから、姉妹のために手を握って病気の回復を祈りました。その後で、これが最後かもしれないと思い、はなむけに讃美歌を歌いました。曲目はいつも大学の聖書研究会でテーマソングのようにして歌っていた、讃美歌312番「いつくしみふかき、友なるイエスは…」を歌いはじめました。ところが驚いたことに姉妹も一緒に歌いだしました。「あ」という言葉もなかなか発声できなかったのに、わたしと一緒に歌っているのです。驚きました。側にいた両親も「〇〇が歌った」といって大騒ぎをしていました。しかも、讃美歌の終わりの三番まで歌ったのです。わたしは、そこに厳かな神の臨在を感じました。

 

 そのことがあってから姉妹は二度目の手術を受けることなく退院して郷里に帰ってきました。これは神がなされた奇跡でした。そしてリハビリ(機能回復訓練)をして、不思議なほどに元気になりました。「わが臨在、汝を癒せり」でした。(2018.11.18