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2018年11月25日



人生の最後が大切

 

『そこでユダの民は皆ウジヤをとって王となし、その父アマジヤに代らせた。時に十六歳であった。…ウジヤは王となった時十六歳で、エルサレムで五十二年の間世を治めた。…ウジヤは父アマジヤがしたように、すべて主の良しと見られることを行った。 彼は神を畏れることを自分に教えられたゼカリヤの世にある日の間、神を求めることに努めた。彼が主を求めた間、神は彼を栄えさせられた』。

 

 

 今日は「人生の最期が大切だ」という題で話します。ウジヤは南ユダ王国の十代目の王で、父アマジヤが早く死んだので、若干十六歳のときに王位に就き、「エルサレムで五十二年の間世を治めた」とあります。

 

 

 しかも、「ウジヤは父アマジヤがしたように、すべての主の良しと見られることを行った」(四節)とあるような、善政を行ったのです。そのため国は「非常に強くなったので、その名はエジプトの入り口までも広まった」(八節)とあるように、国が強固になり栄えました。また十五節には「こうして彼の名声は遠くまで広まった。彼が驚くほど神の助けを得て強くなったからである」とあります。

 

 どうして、これほど立派になったのでしょうか。それは五節以下に「彼は神を畏れることを自分に教えたゼカリヤの世にある日の間、神を求めることに努めた。彼が主をもとめた間、神は彼を栄えさせられた」とあります。このゼカリヤは祭司で、ウジヤが幼いときからの守役だったのです。そいて祭司はウジヤに対して、将来王となるための帝王学(帝王になる者が、それにふさわしい素養や見識などを学ぶ修養)を教えると同時に、ゼカリヤは祭司ですから、神を畏れ敬うことを教えたのです。ですから、若いときから神を畏れる敬虔な王となったのです。

 

 伝道の書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」とありますが、若い時から神を畏れ敬う者は、神がその人生を祝福してくださるのです。

 

 ところが、16章以下をみると、少し調子がおかしくなっています。「ところが、彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、遂に自分を滅ぼすに至った」とあります。そして、ある日、神殿に入って祭壇の上で香をたこうとしました。それを見つけた祭司アザリヤが、「主に香をたくことはあなたのなすべきことではありません」とウジヤを引き止めたのです。祭壇に香をたくことがゆるされているのは祭司だけで、どんなに立派な王といえどもゆるされないことでした。それを承知のうえで香をたこうとしたのは、彼の守役だったゼカリヤが死んだため、王の言うことをきく「イエスマン」ばかりになり、王にはだれも恐れる者がいなくなったからです。

 

 ところが、その王に「あなたは罪を犯しました。あなたは主なる神から栄えを得ることはできません」と忠告されたので、王は怒り心頭に達し、祭司を睨み付けている間に、彼の額に思い皮膚病が現れたのです。そこで急いで神殿から追い出され、王が死ぬ日まで離れ殿に隔離されました。そして死んだ後は、「王たちの墓に連なる墓地に、その先祖たちと共に葬られた」のです。歴代の功績のあった王家の墓ではなく、その他、もろもろの人たちの墓に葬られたのは、ウジヤがその人生の最期を全うしなかったからです。あれほど、五十二年もの間に南ユダを最強にした王なのに、王家の墓に葬られなかったのは、彼がその人生の最期が全うできなかったからです。

 

 わたしたちも今日まで信仰の生涯を歩んできました。しかし、大切なのはその信仰生涯を最後まで全うすることです。これが天国に入る条件です。

 

 こんな詩があります。「よく生きることは、長く生きることよりも大切です。そしてその終わりがとくに大切です。なぜなら、そこから天国に連なっているからです」。信仰生活は、最後を全うすることが大切なのです。どんなに若い時に熱心であっても、人生の途中で挫折してしまったのでは何にもなりません。

 

 昔、ボストン女子マラソンのテレビ中継を見ました。ひとりの選手が40キロ地点を走っているところでした。そして二番目の選手の姿はずーっと後方で見えません。アナウンサーは興奮して「これはすごい記録がうまれそうです」と絶叫しましたので、どんな記録か期待して見ていました。すると40キロ地点を過ぎたところで、そのランナーは立ち止まってしまいました。そして脇腹を抱えるようにしてコースから離れて脱落してしまったのです。あと、もう2.195キロなのに残念でした。どんなにスピードで走っても最期を全うできなかったらすべては無駄です。わたしたちも、ここまで信仰生活を続けてきました。あともう少しです。励みましょう。(2018.11.25