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2019年5月5日


弟子たちの思い煩い

 

彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった』。(ヨハネ福音書219節)

 

 イエスの復活に出会った弟子たちは、その後、ガリラヤ湖にきていました。それはイエスが「ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう」(マタイ福音書2810節)とのお言葉に従ったからです。このガリラヤ湖はヨハネ福音書ではテベリヤ湖となっていますが、これはガリラヤ湖の別名です。そしてテベリヤとは、当時イスラエルを支配していたのがローマ帝国で、テベリウス皇帝が支配していたので、それに因んでテベリヤ湖と呼んでいたのです。

 

 弟子たちは、イエスの言葉に従ってきましたが、まだイエスは来られていませんでした。そこで弟子たちは、その日の糧を心配したのです。これまでは、イエスと一緒に行動しておれば日々の糧はみな備えらていましたが、イエスのいない今、心配になってきました。そこで弟子たちの中には、このガリラヤ湖で漁師をしていた者たちがいましたので、彼らは家から、イエスに従って弟子となったときに、捨てたはずの舟と網を持ち出して漁をはじめたのです。

 

 ところが「その夜はなんの獲物もなかった」とあります。彼らはもともと漁師です。三年半イエスの弟子として従っている間に腕が落ちてしまったのでしょうか、そんなことはありません。イエスの言葉に従わず勝手なことをしたため祝福がなかったのです。

そして失望落胆しているときに、それを岸からご覧になっておられたイエスが、「子たちよ、何か食べるものはあるか」と声をかけられ、「舟の右の方に網をおろしてみなさい」との言葉に従って網を下ろしたところが、引き上げることの出来ないほど多くの魚がとれたのです。あとで数えてみると百五十三匹あったとあります。

 

 ここでイエスが「舟の右の方に網を下ろしてみなさい」と言われましたが、普段、漁は舟の左舷に網を下ろすものです。ところがイエスは「舟の右舷に網をおろせ」と言われたのです。しかし弟子たちが、その言葉に従ったのは、自分の方法で失敗していたからです。人間だれしも失敗したり、行き詰まってはじめて人の言うことに従えるようになるのです。

 

 次に、弟子たちが陸に上ってみると、イエスが炭をおこして、その上に魚がのせてあって、またパンが用意されていたのです。これは弟子たちが獲った魚ではなく、イエスがちゃんと用意しておられたものでした。それを見た弟子たちは思い煩うことがなかったのです。神はわたしたちの必要をいつも備えていてくださる方です。

 

 思い煩いは、神を信じない者、不信仰な者に起こる現象です。信者でも不信仰になったり、霊的状態が悪いときに起こります。

 

 マタイ福音書631節以下に、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って思い煩うな、…あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存知である。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」とあります。ですからわたしたちは神を信じていくならば、なんの心配も不自由もありません。また、ペテロ前書57節には「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを神にゆだねるがよい」とあります。

 

 あるとき、教会員のお爺さんが来られ、「これを献金します。こんなお金は使えません」と言って、一万円札を持ってこられました。そこで「どうしましたか」と聞きますと、こんな話をしてくれました。三月、四月は孫たしの卒業、入学、また結婚などのために出費が多く、年金生活者には大変なときでした。そこで、そのお爺さんは「手水鉢からは、何も湧いてこない」と呟いていました。

 

 ところが、日課のウォーキングで海岸の方に歩いているときに、JRのガード下で財布を拾いましたので、中を見ると一万円札が数枚入っていました。そこで交番に届けてから、またウォーキングを続けて家に帰ってしばらくしたら、一人の男性が尋ねてきました。その人は財布の落とし主で、「あなたのような正直な人に拾っていただいてよかった。あれがなければ明日の仕入れに困るところでした」といって、お礼として一万円を置いて帰られました。

彼はそれをみて自分の不信仰を示されて反省しました。そして、必要なことがあれば神が与えてくださるということを教えられたと、それだけで充分だ、こんなお金は使えないと、教会に持ってこられたことを知りました。「まず神の国と神の義を求めなさい」神の義、つまり神と正しい関係にあるなら、神はわたしたちの必要を備えてくださるのです。(2019.5.5