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2019年6月9日


ペンテコステの結果

 

『五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろな他国の言葉で語りだした』。(使徒行伝21節)

 

 

 イエスが昇天されて後、百二十名の弟子と信徒たちが、エルサレムのとある二階座敷に集まって祈っていたところ、十日目に彼らの上に聖霊が下ったのです。そして彼らは聖霊に満たされて立ち上がったのです。これが聖霊降臨(ペンテコステ)です。そして初代キリスト教会の誕生となりました。あれから二千年になります。

 

 聖霊に満たされた結果、彼らは大きく変えられました。そこで今日は、彼らがどのように変えられたかを話します。先ず第一に、彼らは大胆な人になりました。これまで彼らは自分たちも迫害されないかと臆病になっていましたが、聖霊に満たされた結果、大胆になって堂々とイエスの福音を語ったのです。しかもイエスが復活されたことを語ったのです。イエスが復活されたと言うことは、ユダヤ教のいちばん嫌うことでした。なぜなら、復活されたのなら、自分たちはメシヤを殺したことになるからです。ですから墓の番人に金を与えて、イエスの亡骸は弟子たちが持ち出したと言われたぐらいです。

 

 ところが、彼らがペンテコステの日に聖霊に満たされた結果、大胆になり、恐れなく不法の人々の手で十字架にかけて殺した。(しかし)、神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらされたのである。イエスが死に支配さているはずはなかったからである」と。また32節には、「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである」とも語っています。

 

 わたしたちも御霊に満たされたら、大胆にイエスを証詞することができるようになるのです。人の目を恐れるのは御霊に満たされていないからです。「わたしはクリスチャンです」。「教会に行っています」と、大胆に言えるようになりたいものです。

 

次に、彼らは愛の人になりました。44節に「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、いっさいの持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころをもって、食事を共にし…」とあります。

 

 これは、彼らが持ち物を提供して共同生活をした姿です。なかには豊かな人もあったでしょう。また貧しい人もあったでしょう。でも彼らは聖霊に満たされた結果、愛に満たされましたので、欲も得もなく仲良く共同生活をしたのです。ガラテヤ書522節には、「御霊の実は愛…」ともあります。

 

 ケルケゴールは「愛は惜しみなく与える」と言いましたが、そのとおりイエスは十字架に掛けられたとき、命まで献げられたのです。しかも、最後の血の一滴まで…。ところが、明治時代の文豪、有島武郎は「愛は惜しみなく奪う」という小説を書きましたが、これは人間のエロス愛だからです。

 

 パレスチナには大きな湖が二つあります。一つはガリラヤ湖、もう一つは死海です。そしてこの湖はヨルダン川によって結ばれ、ガリラヤ湖、もう一つは死海です。そしてこの湖はヨルダン川によって結ばれ、ガリラヤ湖の水が死海に注がれているのです。ところが上流のガリラヤ湖は魚が豊富な湖ですが、下流の死海は文字どおり魚が一匹も住まない湖なのです。何故こんなに違うのでしょうか。それは、ガリラヤ湖は水を常に下流に流すので、常に水が循環していますが、下流の死海は水面下以下であるため、水を外に排出することができないので、塩分の濃度が、海水の3パーセントという非常に濃い濃度であるために、魚が住めないのです。わたしたちも受けるクリスチャンよりも与えるクリスチャンになりたいものです。

 

 最後に、初代教会の人たちが聖霊に満たされた結果、「すべての人に好意をもたれていた」(47節)とあります。そして「その日、仲間に加わったものが三千人ほどであった」(41節)とあります。これは初代教会の人たちが聖霊に満たされて恵まれていたので、人々が行為をもったからです。

 

 世のなかの人々は、クリスチャンの生きざまをみて、キリスト教とはこんな宗教だと見ているのです。ですから気をつけなければなりません。クリスチャンは聖霊に満たされて聖い生きかたををしなければなりません。「わたし(神)は聖なる者であるから、あなたがたも聖なるも者になるべきである」とあります。(ペテロ前書116節)(2019.6.9