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2020年06月14日

恵みの後で、御旨に従う

「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、
神に喜ばれ、かつ全きこと
であるかを、わきまえ知るべきである。」
(ローマ人への手紙12章2節)


重い皮膚病にかかった人」は、大勢の群衆に囲まれた主イエス様に近づくために、「レビ記14章」にある戒めを破って人垣をかき分け、主の御前に出て「ひざまずいた」のでした。信仰者がこのように主なる神様に大胆に近づく信仰を、主は喜ばれます(ヤコブ書4章8節)。更に彼は、主に近づき「ひざまずいて」礼拝し、「御心(みこころ)でしたら、きよめていただけるのですが」(1章40節後半) と願い、「主の御心を第一」として、主の前に「遜る」「謙虚さ」を兼ね備えていました。

 この時、主は「重い皮膚病にかかった人」に「触(さわ)」られました。「恐ろしい重い皮膚病」で汚れ、感染することが分かっていても、主は御自分をその人と一つにされ、「わたしの心だ。きよくなれ」(1章41節[新改訳聖書])と宣言されました。「すると、重い皮膚病が直ちに去って、その人はきよくなった」(1章42節)のでした。

「重い皮膚病」を癒して頂いた人は、その後どうしたのでしょうか。2千年前のこの時代には、「重い皮膚病」が癒され、きよめられたことを公に「証明」する祭司に見せて、モーセの律法(レビ記14章)で命じた「捧げ物」を捧げて神様に感謝し、同時に人々に証明することになっていました。このことは、彼が社会復帰をして普通の生活をするために、必要不可欠なことでした。

そこで、主イエス様は、「彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ・・・ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた物をあなたのきよめのためにささげて、人々に証明しなさい」(マルコ福音書1章43節、44節) と仰ったのです。更に主は、「何も人に話さないように、注意しなさい。」(1章44節前半)と「言い聞かせられた」のでした。

 でも、「重い皮膚病をきよめられ、癒された人」は、「出て行って、自分の身に起ったことを盛んに語り、また言いひろめはじめた」(マルコ1章45節)のでした。彼は、主イエス様の命じられた事と、「真逆」の事をしたのでした。主は「もはや表立っては町に、はいることができなくなり、外の寂しい所にとどまっておられた」(1章45節後半)のでした。彼は、主イエス様の「御心」を踏みにじりました。

 彼が癒される前は、「御心(みこころ)でしたら、きよめていただけるのですが」と、どこまでも「主の御心を第一」として、主の前に「遜る」「謙虚さ」を備えていましたが、癒された途端、「豹変し」変わってしまいました。

 主イエス様は、「重い皮膚病」や「数々の病気」を癒し、人々を苦しめる「汚れた霊」「悪霊」を追い出し、人々の切実な願いを適えてくださいます。しかし、主イエス様の最大の使命は、人々の期待に応えることとは裏腹の「十字架について、全ての人の罪を償うために、身代わりに死なれる」ことでした。決して、人々の賞賛の的となり、「人気者」とされ、「この世の王様」に祭り上げられることではなかったのでした。

 私達は、彼のことを「とんでもない人」と思います。しかし、往々にして「恵まれた後」、私達も主の「お心」を痛め、「御心」を蔑ろにすることがあります。いえ、「恵まれた」「恵みを頂いた」後、「守られた」「祝福された」後こそ、心したいものです。

 私達は、また「恵まれた後」「守って頂いた後」、神様への「感謝の祈り」を忘れます。朝、一生懸命お祈りして、その日の内にたくさんのお守りとお恵みを頂いても、夜、休む前になると「神様、この一日を感謝します。あの事、この事を感謝します・・・」と祈るはずですが、その「感謝の祈り」を忘れます。

 あの旧約時代の「最も恵まれた信仰者」であるダビデ王様は、旧約聖書の珠玉の「賛歌」、神様をたたえる歌である「詩篇150篇」の内、「約半分の73篇」が「ダビデの作」と記される程の「最も偉大な信仰者」、「信仰者の中の信仰者」です。でも、「恵まれ」、「守られ」、「祝福された」その後、彼も「大失敗」をしました。

 ダビデは若い時、初々しい真実な信仰者で、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(サムエル記上18章7節[新共同訳])と娘たちが歌うことに過剰反応したサウル王に妬まれ、逃亡生活をする中も「主に油注がれた王」であるサウルを立て、決して罪を犯すことがありませんでした。

しかし、主の恵みでイスラエルの王様として大成した後、部下の兵士たちがアンモン軍との戦いで血を流し、野戦で地べたに休み、奮闘しているのに、ダビデ一人、王宮で昼寝をして、起き抜けに水浴びする女性にくぎ付けとなり、彼の部下のウリヤの妻だった「その女性」を自分のものにした上に、戦地の激戦を利用して「忠実な家臣のウリヤ」の命も奪い、何事もなかったように振る舞う「ダビデ」となり下がりました(サムエル記下11章)。「恵まれた後こそ、大事」「恵まれてからが、問われる」のです。  

 私たちの毎日は、私達が気づかなくても、本当に「多くの主の恵み」に支えられています。そして、多く「恵まれた後こそ、大事」「恵まれてからが、本当に問われる」と思います。「重い皮膚病を癒して頂いた人」や「主の恵みを侮ったダビデ」の姿を「反面教師(反省の材料となるような人)」として、新しい一週間も主の恵みに感じ、主の恵みを感謝つつ、また主の「御心」にいつも敏感になり、お従いする者とされましょう。

 「詩篇103篇」には、「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。」(詩篇103篇2節[口語訳])、別の翻訳では、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」[新改訳] とあります。また、使徒パウロは、「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」(ローマ書12章2節)とローマ教会の人々をねんごろに諭しています。 

現代の私達も、恵まれた後こそ、「何が主の御心、御旨であるか」を確りと「わきまえ知」り、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れる」ことなく、「神に喜ばれ」る歩みをさせて頂きましょう。


2020年6月14日()聖日礼拝説教要旨