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2020年06月21日

神に目をつける

『主よ、わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。わたしに逆らって立つものが多く、「彼には神の助けがない」と、わたしについて言う者が多いのです。しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭をもたげてくださるかたです』。(詩篇三篇三節)



 ダビデ王はたくさんの詩篇をつくりましたが、この三篇は、彼の代表的な詩篇だといわれています。そして、この詩篇がつくられたときは、決して、彼の好調なときだけでなく、むしろ、息子アブサロムに背かれ、クーデター(反乱事件)が起された状況のなかで、つくられたものです。

 アブサロムは自分の同腹の妹が、義兄アムノンに辱められたのを知ったとき、彼は復讐をしてアムノンを殺したのです。そのために父ダビデの怒りにふれ、都エルサレムから逃亡をしました。しかし、三年後にダビデに仕える将軍ヨアブのとりなしによって、エルサレムに帰ることができましたが、王の前に出ることはゆるされませんでした。また、王の一族が一同に会する宴会をするときでも、アブサロムはその席に出ることはゆるされなかったのです。

 ぞこで、自分は王位継承者の立場にありながらも、このままでは王位を継承することはできないと考え、クーデターを起して、力ずくで王位を奪おうとしたのです。このとき、これまでダビデ王の側近であった者たち、また、子飼いの部下たちであった者たちが、「彼には神の助けがない」(ダビデは神に見捨てられた)と言って、王を見限り、「これからはアブサロムの時代だ」と、反乱軍側に味方をしたのです。

 このとき、身の危険を感じたダビデは、ヨルダン川の東に逃亡しましが、まさしく、「風前の灯火」でした。こんなときに作られたのがこの三篇です。しかし、この詩篇を読んでみますと、いつ自分の身に危険が及ぶかもしれないという状況のなかにありながらも、すこしもそれを感じさせていないのです。

 四節に、「わたしが声をあげて主に呼ばわると、主は聖なる山からわたしに答えられる。わたしは伏して眠り、また目をさます。主がわたしを支えられるからだ。わたしを囲んで立ち構えるちよろずの民をも、わたしはおそれない」とありますが、なんと信仰の確信に満ち、平安に満たされた状態ではありませんか。これが死に直面したデビデの姿でした。そして、その極めつけは、八節「救いは主のものです。どうかあなたの祝福があなたの民の上にありますように」と、締めくくっています。つまり彼は、自分に背いた者たちの祝福さえ祈っているのです。

 どうしてダビデは、こんなに平安におれたのでしょうか。そのヒントは三節にあります。「しかし主よ、あなたはわたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭をもたげてくださるかたです」とあります。つまり、ダビデは四面楚歌の状況にあるときに、自分を背き離れていった者たちに、目を向けないで、「しかし主よ」と神に目を向けたことです。わたしたちも、なにか試練や困難に遭遇したとき、回りのものに目を向けないで、神に目を向けるときに、信仰の確信が与えられるのです。

 イザヤ書四五章二二節に、「地の果てなるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。わたしは神であって、他には神はないからだ」とあります。この地の果てなるもろもろの人とは、「どんなに行き詰まっている人でも」と、柘植不知人先生は語っておられます。とにかく、どんなときでも神を見上げていけばいいのです。

 旧約聖書の歴代志下二十章にこんな話があります。「この後モアブびと、アンモンびとおよびメウニびとらがヨシャパテと戦おうとして攻めてきた。その時ある人がきて、ヨシャパテに告げて言った、「海のかなたのエドムから大軍が攻めてきます。・・・そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせた。そこでユダはこぞって集まり、主に助けを求めた。すなわちユダのすべての町から人々が来て主を求めた」。

 これは、南ユダ王国にモアブ、アンモン、メウニの連合軍が攻めてきたとき、ヨシャパテ王には百十六万の軍隊がありましたが、それに頼らないで、「主の助けを求めて」神に目をつけて祈ったのです。その祈りは、「われわれには、このように攻めてくる大軍にあたる力がなく、また、いかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです」と。つまり、ヨシャパテは神に目をつけたのです。

 わたしたちも、なにか困難や戦い、試練のなかに置かれたとき、人に目をつけたり、助けを求めないで、神に目をつけることが大切です。そうすれば、神はわたしたちを助けてくださり、どんな困難をも乗り越えていくことができるのです。


                                    坊 向 輝 國