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2020年06月28日

教会の交わりと罪の赦し

「イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、
『子よ、あなたの罪はゆるされた』と言われた。」

(マルコによる福音書2章5節)

主イエス様は再び、ガリラヤ地方の伝道(ガリラヤ伝道)の「拠点、活動本部」のあるカペナウムの町に来られました。「家におられると」(2章1節)とあります「家」とは、「シモン・ペテロの姑の住んでいた家」と考えられています。彼女がその「家」で、主イエス様に熱病を癒して頂いたので(1章30節、31節)、「ガリラヤ伝道の拠点、活動本部」になったのです。

その「ペテロの姑の家」に、主が滞在しておられることが知れ渡ると、その「家」の玄関先まで人々で溢れました。その時、主は集まって来た人々に「神の御言葉」を説き明かしておられました(2章2節)。人々は、主の語られる「神の御言葉」に慰められ、励まされ、神様の御旨を知らせて頂いたのですが、その場で今日の聖書箇所に記された「奇跡」が行われたのでした。御言葉の語られる処に「神の御業」が行われます。

「中風」(2章3節)は、脳出血などで半身不随や手足が麻痺する病気で、今から2000年前は正しい治療法もなければリハビリもなしで悲惨極まりない難病でした。そのような「中風の者」を見て、気の毒に思い「4人の人」が「中風の者」を主の許に連れて来ました。彼は、間違いなく生きる希望を失い、病との闘いに負けていたと思います。「神様、憐れんで癒してください」と祈り叫ぶ気力もなかったかもしれません。

 小島伊助先生は心臓病を患い、晩年は視力を失われ全くの盲人となられました。その小島先生が「実際、病気の時は、祈る力も信じる力も自分には無いことが多い。周囲の人々の同情と援助とを大いに要する。」と言われました。牧師だから、どんな時でも神様に祈って勝利が与えられる訳ではありません。

病に倒れた時、頼りにならない自分を知らされると共に、周りの人々の信仰の祈りに支えられ、立ち上がることが出来た。それが信仰の世界の真相です。また、病気に限らず試みや困難に遭う時も、周りの人々の祈り、特に教会関係者の信仰の祈りが信仰の友に勝利を与え、回復を与えます。弱さを覚えている人のために、周りの人々が率先して祈って頂ければと願います。本人はなかなか祈れないのです。このことこそ、私達が教会に属して「信仰による家族」「神の家族」として共に信仰生活を送っている理由の一つです。

火の付いた薪も1本なら火は消えてしまいます。2本、3本、4本と組み合わせて燃やすと消えることはありません。信仰の世界でも一人だけでは、信仰を保つことが出来ません。主は「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる」(マタイ福音書18章20節)と仰るように、「一人」ではなく「ふたりまたは三人」から始まる「教会の交わり」が、私達のキリスト教信仰の土台です。

さて、ここで問題が立ちはだかります。ペテロの姑の家は超満員で、床に臥せっている中風の人を玄関から入れる訳には行きません。4人の男の人たちは、「どうしたものか?」と困り果てたと思います。私達の信仰生涯にも、聖書の御言葉を信じて従って来たのに、困難の壁が立ちはだかる。前に進めなくなって立ち尽くし、「やっぱり駄目なのか」と項垂(うなだ)れてしまう。そんなことが、信仰生涯には時々起るものです。

4人の男の人が立ち往生した時、「諦めて帰った」のではなく、「中風の者」を屋上に運んで屋根を剥がし、「中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした」のでした。この所を読みますと、「何と非常識な事を!!」と思われるかもしれませんが、主は4人の男の人の非常識とも思える「信仰の行為」を受け入れられたのでした (2章5節前半)

この時、主は開口一番、「意外な事」を仰いました。「子よ、あなたの罪は赦された」と仰ったのでした。「ええ、一寸と待って。4人の男の人は、この中風の人の病気を癒して頂くために来たのに」「何故、イエス様は、『あなたの罪は赦された』と見当外れの事を仰るのだろう?」そう思われる方もあると思います。でも、これは「人の心の中の思いを全て知っておられる御方」としての第一声でした。

 ということは、この「中風の人」は、彼が神様を畏れず罪を犯し続けて来たことが、中風の病の苦しさ以上に、彼の心に重くのしかかる「最大の関心事」だったのでしょう。何故なら、ここで「あなたの罪は赦された」と言われるところの「罪」という言葉は、原典のギリシャ語聖書でも、英語の聖書でも「複数形」の「いくつもの罪」の意味です。「中風の人」がその人生で犯し続けて来た「罪の数々」、いえ「全ての罪」のことを意味しています。

しかし、聖書や主イエス様が、「中風」を始め「全ての病は罪の結果である」とは決して言っていません。「ヨハネ福音書9章」には、生まれつき目が見えない盲人の事が記されています。お弟子達が、「本人か、両親か、どちらが罪を犯したからですか?」と尋ねた時、主は「ただ神の御業(みわざ)が、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ福音書9章3節)と仰って、この盲人の目を完全に癒し、御自分が「人々が長く祈り待ち望んだ救い主キリストである」と示されました。病気は決して「罪の結果」という訳ではありません。それは、神様の「御業」、「奇跡」が行われて、主の栄光が現れるためです。

 しかし、この「マルコ福音書2章」の「中風の者」だけは違いました。主は、この人の「数々の罪」の赦しこそが、「新しい生涯」への「全ての始まり」「土台」、「祝福を受ける人生の始まり」ということで、まず「罪の赦し」を宣言されました。この「中風の者」の場合は、罪が赦されて初めて、病からの「回復」「癒し」があると言う事でしょう。

現代の私達も、人生の多くの問題の解決が、「罪の赦し」にあることをハッキリと知りたいものです。「罪が赦される」なら、物事は一つずつ解決されるのです。そして、「罪の赦し」のために、主イエス様は私達、全人類の全ての罪を背負い、身代わりとなって、「カルバリーの丘の十字架」について、「尊い血潮」を流してくださいました。「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(ヨハネ書1章7節)とありますように、主イエス様と「御宝血」を信じる「信仰」によって、私達は一人の例外もなく、全ての罪が赦され、私達の人生に「真の回復と祝福」が与えられ、更に「永遠の祝福」、「永遠の生命」が与えられるのです。

2020年6月28日()聖日礼拝説教要旨