本文へスキップ

message

2020年09月27日
マルコ福音書5章21節-43節②


   「怒れることはない。ただ信じ続けなさい。」


カペナウムの町で多くの人々から尊敬されている長老であり、有力者であり、名士のヤイロが、世間の人々から「ナザレから、なんのよいものが出ようか(ヨハネ福音書1章46節)と揶揄(やゆ)され、からかわれる「ナザレ村」出身の田舎教師の主イエス様に対して、「自分の立場」「名誉」「評判」をかなぐり捨て、主の前にひれ伏し「土下座した」のでした。瀕死の娘を癒して頂きたい「一途な信仰」によるもので、主はその「信仰」に応えられ、娘のいるヤイロの家へ行かれました(5章22節~24節)

ところがその道中、ヤイロにとっては思いもよらない出来事が起こりました。瀕死の状態の娘のところへ急いでいた主イエス様が、突然、道の真ん中で立ち止まり、「わたしの着物にふれたのはだれか?」と叫ばれ、辺りをずーと見回されたのでした(5章30節~32節)

 この時、ヤイロもお弟子達も、主の「異様な行動」に戸惑ったに違いありません。群衆が押し迫る中、主の着物に触れた者など分かるはずがなく、ヤイロにとっては一刻を争う事態です。1分でも1秒でも早く娘に御手を置いて癒して頂きたいと思っているのですから、主が道の真ん中で突然立ち止まり、訳の分からないことを口走しられる姿に、彼はイライラしたに違いありません。

 私達の信仰生涯にも、「神様、何故遅くなるのですか。もっと早くしてください」と心の中で叫んだ経験をお持ちの方もあるでしょう。しかし、神様のなさる事に何一つ間違いはありません。

この時、主が「わたしの着物に触れたのはだれか? 出ておいで」とのお言葉に応えて、やっと一人の女性が恐れおののき身震いしながら出て来ました(5章33節)。ヤイロは、「何ということだ 娘の命が危ないのに」と内心イライラしたでしょう。更に「イエス様、いい加減にしてください。私の娘が死にかけています」と文句を言いたくてうずうずしていたでしょう。

 しかし、神様の「御思いとその御計画」は、人の「思いと計画」とは違うことが多いのです。旧約聖書には「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書55章8節9節)とあります。

 この時、女性は重い口を開いて、主の着物に触れた途端、12年間患い苦しみ続けた婦人病が見事に癒され、完全に良くなった次第をありのままに話し出しました。主の話を半信半疑で聞いていたお弟子達は当然、群衆もヤイロ本人もビックリしたことでしょうが、彼は改めて主の「癒しの力」を見せられたのです。ヤイロにとっては「娘も癒される」という信仰が強められたことでしょうし、自分がイライラしたことを心から悔いたことでしょう。

現代の私達の信仰生涯でも、待つべき時に待つことが出来ず「何やってるんだ」と爆発して、元も子も無くしてしまうことが有ります。しかし、主のなさることは「最善」で、「万事を益」として下さいます(ローマ人への手紙8章28節)

また主は、イライラしやすい私達に「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46篇10節)と言われます。現代社会の、目の回るようない忙しさの中にあって、「読んで字のごとく」「心を滅ぼすような、『忙しさ』」にあっても、決してイライラせず、物事を悲観せず、「静まって、・・・」主を信じて、事が「成るまで」「成就するまで」待ち、祈り続ける者でありましょう。主は、愛する者たちに「万事が益となるように」して下さるのです

 さて、婦人病の鮮やかな癒しの証しに信仰が強められたヤイロですが、その後、大変な「信仰の戦い」が起こりました。それは、ヤイロが最も恐れていた事態でした。それは、大切な一人娘の「訃報」でした(5章35節)。ヤイロは狼狽(うろた)え、その場にへなへなと頽(くずお)れたでしょう。また、「イエス様が群衆の中から、婦人病が癒された女性を捜さず、証も聞かず、一目散に家に行って下さったら、あるいは娘は助かったかもしれない」という考えが頭の中をよぎったかもしれません。

 しかし、主はヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました(5章36節)。この「ただ信じなさい」という言葉は、聖書の原文のギリシャ語では「ただ、信じ続けなさい」「(信じることを)止めないで~し続ける」という「継続」の意味があります。主イエス様は、気落ちしたヤイロに「必ず、娘は良くなると信じ続けているなら大丈夫。恐れることはない」とおっしゃり彼を励まされたのでした。

 一行が彼の家に着くと、人々は娘の死を悼んでいました。しかし主は「子供は死んだのではない。眠っているだけある。」(5章39節の後半)とおっしゃいました。目覚める「希望がある」とおっしゃったのです。人は死んでも、神の独り子の主イエス様が甦らせてくださる、という「真の希望」があるからです。

 しかし、「人々は、イエスをあざ笑った。」(5章40節)のでした。現代の人々も、「死者の中からキリストが復活された。」「クリスチャンも、必ず復活し『栄光の新しい体(からだ)(ピリピ書3章21節)が与えられる」と言っても、彼らも「あざ笑い」ます。「それは、心の問題だよ」と軽くあしらいますが、主は人を甦らせ復活させることが出来ることを示されます。

 ただ、「死人の甦り」「復活」は驚くばかりの奇跡で、正しく理解できる者として「娘の両親と3人の弟子のペテロ、ヤコブ、ヨハネ」だけが選ばれて、主イエス様の御業を見るために、主と共に娘のいる部屋へ入って行いきました。そこで、主は子供の手を取って、「タリタ、クミ(少女よ。さあ、起きなさい。)」と言われました(5章41節)。そして、これが神の独り子イエス様の「御言葉」、権威ある「御言葉」ですので、「御言葉」は「事実」となりました(5章42節)

主の「御言葉」は空しくありません。主は「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。(イザヤ書55章11節)と宣言されます。この時も、ヤイロの娘の上に主の「御言葉」は成就し「事実」となりました。現代も、主なる神様を信じて受け取る「御言葉」は、成就して「事実」となります。大切なことは「恐れることなく、ただ御言葉を信じ、信じ続ける」ことです。     
        (2020年9月27日 聖日礼拝
説教要旨  竹内紹一郎)