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2020年10月04日
マルコ福音書6章1節-6節


     「私たちの希望」


主イエス様は、ガリラヤ地方で多くの病人を癒され、偶像礼拝とそれに伴う悪霊が働くデカポリス地方で「悪霊に憑かれた男の人」を癒され、御自分の町「カベナウム」に戻って、出血の止まらない長血の女性を癒して信仰告白に導かれ、更に会堂司ヤイロの娘が亡くなった直後、彼女を甦らせなさり(マルコ福音書1章~5)、郷里のナザレ村に帰られました。

安息日になると、主は「ユダヤ教の会堂」で教え始められました(6章1節~2節)。主がカペナウムや、ガリラヤ湖の周辺でなった数々の奇跡の御業のうわさは、同じガリラヤ地方の寒村のナザレ村にも伝わっていたので、村の人々は主イエス様とお弟子達の一行を大きな関心をもって迎えたのでしょう。

 その会堂で、主は神の言葉を読まれました。「並行記事(同じ出来事を記した別の福音書音の記事)」の「ルカ福音書4章」によりますと「イザヤ書61章」の「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」の御言葉を朗読されました(同福音書4章18節~19節)。そして、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(4章21節)と宣言されました。ところが、ナザレ村の人々は、主イエス様のお言葉を信じようとしませんでした。「イザヤ書の御言葉」をそのまま信じれば、救われ大いなる祝福に与かったはずなのに、彼らは目の前に備えられた祝福を信じないで「拒否」したのでした(マルコ福音書6章2節後半)

 私達の大切にしている「信仰の世界」では、「信仰がなくては、神に喜ばれることは できない。…」(ヘブル書11章6節)とある通り、全ては「信じること」から始まり、「すべての祝福は信じることで得られる」のですが、この時の郷里ナザレ村の人々は「信じ」ず、信仰の世界の「大原則」を無視して神様からの祝福を失いました。

では何故、ナザレ村の人々は主イエス様を信じなかったのでしょうか? それは、主がヨルダン川で洗礼者ヨハネから「バプテスマ」を受け「公の伝道生涯」に立たれる (マルコ福音書1章) までのお姿が、ナザレ村の他の人々となんら変わらない「普通の人」「ただの人」だったということなのでしょう。その事を記しているが、「第5福音書」とも言われる「イザヤ書」の「53章」です。

主イエス様の「公の伝道生涯」の前のお姿として、「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は 侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも 彼を 尊ばなかった」 (53章2節~3節) とあり、御生涯のクライマックスの「ゴルゴダの丘での十字架刑」についても「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。…しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた…彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とが()ある者のために とりなしをした。」(53章の4節~12節)と克明に預言されています。主イエス様は「神の独り子()」でありながら、罪を犯すことは別 (ヘブル書4章15節、Ⅱコリント書5章21節) として、ナザレ村の「普通の人」と何ら変わらず、私達と同じ「人間の姿」を取り、大工の父ヨセフ亡き後は大工として、母マリヤとヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンと妹たちの生活を支えるため働き続けられたのでした。まさに「讃美歌121番」の通りでした。ナザレの村の人々は、その故に「つまずき」、主を信じませんでした。家族も主を信じませんでした(マルコ福音書3章21節)

主イエス様は、その時、たぶん悲しげに「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである(聖書協会共同訳6章4節)と言われ、不信仰なナザレ村では「力あるわざを一つもすることが」おできになかったのでした(6章5・6節、ヘブル人への手紙11章6節)。

 でも聖書は、この家族の「マリヤ…ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟」の不信仰を記して終わっていません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの「4つの福音書」の次の「使徒行伝1章」には、この「主の家族」が再登場し、「彼ら(ペテロとお弟子達) はみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、および イエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」(使徒行伝1章13節~15節)とあります。五旬節(ペンテコステ)を前にして、あの家族が祈っている姿です。

「イザヤ書53章」に記されている通り、主イエス様はゴルゴダの丘の十字架で死なれ、全ての人の罪を償い、三日後の日曜日の朝に復活されたのですが、その後の40日間はお弟子たちに甦られた御自身を顕されました。主はその家族である「母マリヤ、およびイエスの兄弟たち」にも現れ、彼らの「以前の不信仰」を吹き払われ「ペンテコステの聖霊降臨」を祈り求める者とされたのでした。

 その「兄弟たち」の中に、主イエス様を「気が狂った」(マルコ3章21節) 者として信じなかった「弟のヤコブ」と「ユダ」が含まれていたのでしょう。ペンテコステの聖霊を受けた「弟のヤコブ」はエルサレム教会の初代監督(牧師)となって、ペテロやパウロと共に初代キリスト教会の指導者の一人となり、多くの人々をキリストに導き、新約聖書の「ヤコブの手紙」を書きました(ヤコブの手紙1章1節)。兄のイエス様を信じず馬鹿にしていた「弟のヤコブ」が「不信仰」を吹き払われ、救われて「聖霊に与った姿」です。「伝承(言い伝え)」では、エルサレム教会に忠実に仕え、紀元AD62年に石で打たれて「殉教した」と言われています。「ユダ」も復活された主イエス様により回心し、新約聖書の「ユダの手紙」を書いて紀元AD1世紀の教会を励ましました(ユダの手紙1章1節)

 主イエス様の「不信仰な家族」が、「復活され主イエス様」と「聖霊の恵み」で回心し、大いなる信仰者とされ「キリストの教会」に忠実に仕えたことは、日頃、不信仰な世の人と「家族」と共に生きている「私たちの希望」であり、祈り待ち望むための励みとなるのでないでしょうか。「不信仰」を吹き払われる主イエス様に期待し、家族・友人・知人の救いのために、聖霊のお働きを祈り続けてまいりましょう。
             2020104日 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎)