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2021年1月3日

新約聖書  マルコ福音書8章11節~21節


    純粋で真実なパンの祭」
    
        
「わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。」(Ⅰコリント書6章8節)

「あなたがたは、… 何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」     (ローマ書12章2節)

主イエス様に「敵意」を持つパリサイ人は、「天からのしるし」を見せるように要求しました。でも、別に信じたくて、そう言ったのではなかたのです。主イエス様を困らせる目的で、議論を吹っかけて「しるし」を見せよと迫ったのでした(8章11節)。

 聖書の中では、「パリサイ人」は主イエス様に「敵意」をもって「偉そうなことを言う人々」であり、「律法」を守りことに人一倍熱心な人々として描かれています。しかし、「別な面」もあります。彼等は身分は一般に高くなく、使徒パウロのように手工業[主に、手先によって品物を作る手工業(着物・履物・家具・テント造り[使徒行伝18章3-4節])] などに従事する中流階級の人々で、律律法を守ることが神様に仕えることと勘違いした人ですが、一面「善良な市民」にでした。

彼らは「6日間一生懸命に働き、7日目の安息日は会堂での礼拝に出席して熱心に御言葉を聞く」人々です。勤勉で良く働き毎週7日目はみんなで集まって礼拝するのは、現代の私達クリスチャンとほとんど変わりません。だた一つ、彼等パリサイ人は「自分は正しい人間だ」と言い張って譲りません。一方、私達クリスチャンは「自分は罪人」で、「主の十字架の血潮、御宝血で全ての罪を赦された」とハッキリ言えます。そして、救い主イエス様を心から崇め、毎聖日礼拝で「生命の御言葉」に与って生きています。主イエス様は、彼らパリサイ人が「自分は正しい」とするので「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ」(マタイ福音書23章13節他)と厳しく取り扱われました。

また、彼らパリサイ人を含めた「ユダヤ人」については、「ローマ人への手紙10章1節~4節」に適切に説明されています。「神の義」とは「神様との正し関係」ですので、パリサイ人たちは「神の義(神様との正しい関係)を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義(神様との正しい関係)に従わなかったのである。キリストは、すべて信じる者に義(神様との正しい関係)を得させるために、律法の終りとなられたのである。」(ローマ書10章3~4節)のです。

結局、パリサイ人は「独りよがりの正しさ」に酔い、傲慢にも主イエス様を見下し、「神の独り子であり神であるイエス様」を「試す(テストする)」のでしたが、「自分たちは、正しいことをしている」と考え、「偽りの善」をする「偽善者」でした(8章11節)。

 それで、イエス様は、彼等から逃れるようにして舟で向こう岸を目指されました(8章13節)。お弟子たちは急いだのでパンを忘れ、気になっていました。そんな時、主が、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われました(8章14、15節)。「パン種」はふっくらしたパンを作るには欠かせませんが、聖書の世界では悪い事が拡大する例えに多く用いられます。パリサイ人の「自分たちでは善いことをしていると思っているのに、実は、主イエス様のお心を痛め、父なる神様を悲しませている」ところの「偽善」と、主への「敵意」や「批判精神」は、瞬く間に世の中に広がるものでした。このパリサイ人や律法学者に煽(あお)られたユダヤ人たちは、「ユダヤ人の王」として迎えた主イエス様を数日の内に十字架に付けたのでした。「ヘロデのパン種」も似たり寄ったりで、彼の「世俗的な発想」「この世のことしか考えない現世主義」などは悪影響を及ぼすので、主は警戒しなさいと言われました。

 聖書学者によりますと、「5千人の給食の奇跡」が行われたのは「過越の祭」の頃(ヨハネ福音書6章4節)で、一年後の「過越の祭」には主が十字架に架かられます。この時期は、十字架のご受難まで「あと10カ月の頃」でした。しかし、お弟子達は確かな見方、予想、洞察が出来ません。それどころか「とんでもない勘違い」と「不信仰」を露わにしてしまいました。そんなお弟子たちの姿は、10カ月後の「十字架」を意識される主イエス様には辛いものがありました。

 それに加え、2回に亘(わた)ってお弟子たち前でなさった「奇跡」がありました。世間では「二度あることは三度ある」と言いますが、お弟子たちは数か月のうちに、2回も「パンの奇跡」を経験しました。彼らの目の前で起きた奇跡の記憶は鮮明でした。人数も残のパンくずを入れた籠の数も種類も覚えていました。

でも、お弟子達は「パンが一つがしかない」と右往左往したのでした。「主の良くしてくださったことを 何一つ忘れるな。」(詩篇103篇1節「新改訳」)とありますが、与えられた「お恵み」を覚えているだけでなく同じような状況が起こったら、今度は「活用する」ことが大切です。主イエス様は、この時「2回のパンの奇跡で、私はあなたたちが必要なら、いつでもパンを与えることが出来ると知ったはずだ。だから、私はあなたがたが『パンを持って来るのを忘れた』ことなど、問題にしているのではない。パリサイ人やヘロデの「パン種」である彼らの『偽善』や『世俗的な現世主義』から来る『敵意』や『殺意』は、『パン種』のように急速に膨張して、私を十字架に追いやるのだ。だから、『彼らのパン種を警戒しなさい』」と言われているのです。

とんでもない「勘違い」をするお弟子たちでしたが、でも主は彼らを愛して諭して育み、「愛して、彼らを最後まで愛し通され」(ヨハネ福音書13章1節)ました。現代の私達も、お弟子たち同じように「とんでもない勘違い」をすることがあります。また、パリサイ人のように、「神の義(神様との正しい関係)を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義(神様との正しい関係)に従わなかった」(ローマ書10章3節)ことがあったかもしれませんが、主はそんな私たちを「愛して、最後まで愛し通され」る御方です(ヨハネ福音書13章1節)。そして主は、御言葉を通して「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」(ローマ書12章2節)、「わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない 純粋で 真実なパンをもって、祭をしようではないか。」(Ⅰコリント書6章8節)と勧められています。


                         2021年1月3日聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎