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2021年1月10日

旧約聖書  詩篇92篇13節~


  神を畏れる者の繁栄」
    
        
『正しき者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの香柏のように育ちます。
彼らは、主に家に植えられ、われらの大庭に栄えます。
彼らは、年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう。(詩篇九二篇十三節ー)

今日は「神を畏れる者の繁栄」について話します。まず最初に「正しい者は」とありますが、これは道徳的、倫理的に正しいというのではなく、神を信じ、神を畏れ敬う者のことです。また「なつめやし」とは、イスラエルの代表的樹木で、成長がはやく九十フート(約三十メートル)の高さまで成長し、二百年の寿命があると言われ、たくさんの実を結び、繁栄のシンボルといわれています。
次に、「彼らは、年老いてなお実を結び、いつも生気に満ち、青々として、主の正しいことを示すでしょう」とあります。つまり、神を畏れ敬う者は、歳をとっても実を結び、生気に満ちて、神のために生きるのです。
よく、「歳をとったから何もできない」、「役にたたない」と言う人がありますが、神を畏れ敬う人は、いつも生気に満ちて生きていけるのです。それは聖霊の力によるからです。コリント後書四章十六節には「わたしたちの外なる人(肉体)は(年齢と共に)滅びても、内なる人(霊的魂は)、日ごとに新しくされていく」とあります。
話は変わりますが、「信仰に生きてる人は、世間一般の人よりも十歳ほど若く見える」とよく言われますが、それは、信仰に生きている人は心に平安があるからです。ですから、先のことは心配しないで、青々として、生気に満ちて生きていけるのです。
今、祈襦会では、わたしのご用のときは、出エジプト記をとおして、モーセの活躍について学んでいます。このモーセは今から約三千五百年ほど前の人ですが、彼は八十歳のときに神に召されてエジプトで奴隷になっていたイスラエルの民を助け出して、四十年余りかけて、彼らの故国カナンの入り口まで導いた人です。そして百二十歳のときにモアブの地で地上の生涯を終えましたが、その最後の姿を聖書には、次のように書いて
あります。「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった」(申命記三四章七節)。彼をこのように活躍できたのは、彼に注がれた聖霊の力です。
わたしたち「活水の群」の大先輩の教職で藤村壮七先生がおられました、この方は、東京の渋谷教会の藤村和義先生のお祖父さんです。日本伝道隊の教職でしたが、柘植不知人先生が東京の落合で伝道を開始されたとき、落合に来て柘植先生の働きを助けられました。「柘植先生の大きな働きの背後には、藤村先生の張力があったからだ」とさえ言われています。
その生涯は九六歳でしたが、最後まで元気で斐錬(かくしゃく、年老いて丈夫で、元気なさま)としておられました。そして、九0歳になっても請われるままに四国の教会を巡回伝道をされておられました。また、わたしが長野の教会にいたとき藤村先生を特別集会のご用にお招きしたのが九0歳のときでした。講壇に上がられると、演壇の両端を握って、大きな声で堂々とお話をしておられました。先生をこのように用いられたのは、聖霊の力であることは言うまでもありません。まるでモーセを見るようでした。わたしたちも、聖霊の力に満たされて、先生のようにありたいものと願っています。
また話は変わりますが、今から四百数十年前、織田信長の時代に「人生五
0年」と言われていました。ところが今は「人生一00年」時代といわれるようになりました。わたしのメモによると、一九八七年(昭和六二年)には百歳を越えた高齢者が二千人になったと報道されました。百年も生きるなんて考えられなかったので、日記帳にメモしました。ところが、それから十五年後二00二年(平成十四年)には、一万七千九百人と報道されました。また、昨年は六万人を越えているのです。どうして、こんなに長寿になったのでしょうか。
その原因の―つは、食料事情がよくなり、栄養状態が改善されたからではないでしょうか。次に考えられることは、医学の進歩です。このごろは年をとってもなかなか死なないです。ある人は、老人ホームに入って、三度三度の食事をいただいて、以前よりも元気に暮らしています。また、昔はこんな制度はなかったですが年金制度があります。生きている間、決まって送られるなんて、日本は世界でも優れた福祉国家です。


                       2021年1月10日聖日礼拝説教要旨 坊向輝國