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2021年7月4日礼拝説教要旨
マルコ福音書12章38節~44節 

     「やもめの献身表明」


「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」                                (使徒20章32節[新改訳])
「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部 入れたからである。」      (マルコ福音書12章43,44節[聖書協会共同訳])


 今日の聖書箇所の前半(マルコ福音書12章38~40節) の主題は「偽善」です。「偽善」という言葉は、ギリシア語の元々の意味が俳優や女優などの役者が「演劇等である役割を演じる」事から来ています。そこから、実際に「抱いてもいない感情」や「徳など」を持っている「ふりをする」ことです。

 主イエス様は、「役者」ように「感情や徳などをもっている『ふりをする』」律法学者を厳しく非難されました。彼らは宗教的権威の「象徴」の「長い衣」を着てわざわざ人前を歩きまわり自分の存在を誇示し(12章38節)、「広場であいさつされること」に「心地好さ」を味わおうとし、会堂や宴会でも「上座(じょうざ、かみざ)、上席(じょうせき)」を求めて、「自分は立派なものだ」と言うことを無言で示しました(12章39節)。現代の教会の礼拝堂では、「上座上席」は説教壇に一番近いベンチです。そこは、御言葉に集中できる「金の席」で、次が「銀の席」、更に「銅の席」と続きます。しかし、2000年前の律法学者は、自分が「立派な者」であると誇示するために「上座上席」を求めました。

 また彼ら律法学者は、当時の社会的弱者の「やもめの家」からも経済的援助を求めて、なけなしの財産を食いつぶすようなことをしていました。更に「見えのために長い祈」をして人前でさも信仰深そうに見せかけたのでした(12章40節前半)。

 主イエス様は、彼らの「偽善」に対して「もっときびしいさばきを受けるであろう」と言われました(12章40節後半)。並行箇所の「マタイ福音書23章」でも、主は「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイ福音書23章13、14、15、16、23、25、27、29節)と8回も繰り返され、最後に「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(23章33節)と聞くに堪えない裁きの言葉を連ねておられます。

 あの主イエス様が、何故そこまで仰るのでしょうか? それは、彼らが「人々に称賛されることを第一の価値として生きていた」からです。本来、「神の言葉」の聖書を学び研究し神様に喜ばれる人の生き方をよく知っていたはずですから、「神様が喜ばれる事」にこそ価値を置いて生きるべきなのに、ひたすら「人の目」を気にして生きていたのです。

現代の私達は、主イエス様が十字架の尊い御血潮で贖ってくださり、永遠の命を与られて主なる神様を「天のお父様」と呼ぶ者とされました。救われた最大の特徴の一つは、絶えず主なる神様の御目を意識することです。「箴言」には、「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3章6節)とありますように、私たちに与えられた信仰の世界の現実を知り、主なる神様の御目を意識して生きる時、「祝福された、真っ直ぐの道」が備えられます。使徒パウロは、「いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとに ゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです」(使徒20章32節[新改訳])と教えています。「恵みの御言葉」によって信仰が成長し、「神の御国の祝福」を受け継ぎましょう。

 さて、主イエス様が、律法学者たちの「人の目」ばかりを気にする「偽善」を鋭く見抜いて指摘された直後、今度は逆に「貧しいやもめ」の姿に、信仰者の真実な姿勢を見い出しておられました(マルコ福音書12章41~44節)。主は、真実でない「偽善」を見分けられると同時に、「人の目には隠れた真実」をも見抜かれるのです。

 当時、神様を礼拝するエルサレム神殿には、いくつかの庭がありました。一番外側の「異邦人の庭」とその内側の「婦人の庭」の境にある「美しの門」を入った所に、ラッパ型の13の「さいせん箱」が置かれていました。最新の翻訳聖書(聖書協会共同訳)では、「イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」(マルコ福音書12章41節)と「さいせん箱」を「献金箱」と翻訳しています。そこに「多くの金持ちが、たくさんの金を投げ入れていた」のですが、一人の貧しいやもめは、「レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る」(12章42節)とあります金額を捧げました。「レプタ二つ(一コドラント)」は、現在の日本円に直しますと、「当時の成人男子の日当が、ユダヤでは『一デナリ』で約1万円」としますと、「一コドラント」は「1/64デナリ」ですので日本円で約160円です。「食パン1斤」の価値です。

 主イエス様は、「あの貧しいやもめは、・・・だれよりもたくさん」献金したと見られました(12章43節)。更に「生活費全部」を捧げたとありますから(12章44節)、その後の日々の生活はどうするのと思う方もあると思います。でも、主なる神様は真実な御方です。御自分を信頼して全てを任せた者を辱めるようなことはされません(「ちいろば牧師」榎本保郎先生『旧約聖書一日一章』998頁参照)。

 貧しいそのやもめが「その生活費全部を入れた」のは、「神仏に願いが成就した感謝の印、願いを成就してもらうための交渉金の金」を投げ込む「賽銭箱」ではなく「献金箱」でした。主なる神様を信頼して、一切をゆだねした印(しるし)を入れる「献身箱」でした。

 私達もこのやもめの信仰と同じく、毎週聖日礼拝の「献金」は、新しい一週の間に主の御前に自分をすべてお任せする「献身の印」、信仰の決意を献金に託して神様に表明する「決意表明」です。「金額の多少」ではありません。あなたを御子イエス様の血潮の代価で買い取られた主なる神様に対して、「神様、この一週間、あなたとその御言葉に信頼して、一切を任せます」という「決意表明」です。

聖日礼拝のクライマックスは、讃美歌の恵み、御言葉の解き明かしの恵みもありますが、「この新しい一週間、神様、お頼み申します」と「信頼を表明」する「献身の決意表明」の「献金」です。その「献身の決意表明」を、主は何よりも喜んで全ての必要を満たされます。

                     2021年7月4日 第一聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎