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2021年9月26日礼拝説教要旨

新約聖書  マルコ福音書 14章55節~65節 


      「主イエス様の裁判(1)」


「わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない。」        (マルコ福音書14章49節)

「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。」
                                        (イザヤ書53章7節)

「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。」                               (Ⅰペテロ書2章22-23節)


 主イエス様は不当な逮捕(マルコ福音書14章45節)をされた後、「全議会」に引き出されました。死刑にするためです(14章55節)。しかし、当時のユダヤはローマ帝国に支配される「植民地(属国)」で、死刑判決は最終的にユダヤのローマ総督ピラトの裁断を仰がなければなりませんでした。それで、主の裁判は、ユダヤ人による「律法に基づく宗教裁判」3回と、ピラトや主が育たれ活動されたガリラヤの領主ヘロデの下での「司法に基づく裁判」3回、合計6回の裁判を受けられました。

現代の日本では、地方・高等・最高裁判所による「三審制」で慎重・公正な判断がされますが、倍の「6回の審理」を受けられた「主イエス様の裁判」は間違いのない正しい裁判のはずですが、実際は「真逆」でした。規定違反の夜間の非合法な裁判でした。更に、何としても主を死刑にするため「偽証(偽りの証言)」を求めた、実にいい加減な裁判でした(14章56節)。

主イエス様の裁判では、2千年後の現在幅広く行われる「科学捜査」による証拠など影も形もありません。当時は事件を目撃した「二人の人の証言」が一致したら、犯罪が認定され判決が下だされました(申命記19章15節)。もし二人が「口裏を合わせて」偽りの証言(偽証)をしたら、訴えられた人が無罪でも「犯人」にされて「死刑」になることもありました。ですから、「十戒の第9戒」では「あなたは隣人について、偽証してはならない」と厳しく戒めています(出エジプト記20章16節、申命記19章18節~21節)。

 現代も「うそ」「偽り」が蔓延していますが、いつかは必ず発覚します。発覚しない場合でも最後の審判で主なる神様の前に正しく裁かれ、永遠の暗黒と火の「永遠の滅び」を刈り取ることでしょう。新約聖書は、「あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。」(エペソ書4章25節)と諭しています。

 主イエス様のこの裁判では「偽証」が相次ぎましたが、証言が合致しません(マルコ福音書14章56節)。最後に二人の偽証人が立てられ(マタイ福音書26章60節)、「わたしたちはこの人が『わたしは手で造ったこの神殿を打ちこわし、三日の後に手で造られない 別の神殿を建てるのだ』と言うのを聞きました」(マルコ福音書14章58節)と言いました。しかし、二人の証言は一致しませんでした(14章59節)。

ユダヤ人は、「エルサレム神殿」こそ主なる神様が臨在される「特別に神聖な場所」と考えていましたので、神殿の破壊に言及することは神様を冒瀆する「冒瀆罪」でしたが、主イエスは神殿を壊すとは言っておられません。また「三日のうちに・・・建てる」と言われたのは、主の御体である「新しい神殿」が十字架刑によって滅ぼされても、3日目に死人の中から復活される意味でした(ヨハネ福音書2章21節)。

しかし大祭司にとっては、この訴えは重大な問題でした。「神殿を壊しても、また建てる力がある」とは「イエスがキリストである」との意味に受け取ったのでしょう。そこで彼は、主に何か弁明したいことがあるか尋ねました(マルコ福音書14章60節)。しかし、主は何も答えず、沈黙されました(14章61節前半)。主が「何か言えば言葉尻を取られる」と考えられたとする向きもありますが、「真相」は別の処にありました。それは、「不当逮捕」の時に「しかし聖書の言葉は成就されねばならない。」(14章49節)と言われたように、この時も旧約聖書の御言葉が成就されると知っておられたからのです。

イザヤ書の預言には「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場に ひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。」(イザヤ書53章7、8節)とイエス様の十字架の御受難が預言されています。この預言の通り、主は全ての人の罪の償いを成就するために「ほふり場にひかれて行く小羊のように」無言でした。

 その主イエス様に対して、大祭司は「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」と再び聞きただしました(マルコ福音書14章61節後半)。その時、主は「最も大切な一言」を語られました。主は御自身がキリストであることを肯定されるだけでなく「あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」(14章62節)と言われて、御自身が「父なる神様の右に座し、世の終わりには栄光の雲に乗って審判者として来る」と宣言されたのです。主を信じない者には「永遠の滅びに定める審判者」、また主を信じて全ての罪を赦され「永遠の命」を得た者には御許に引き上げて新しい「栄光の体」を授ける (ピリピ人への手紙3章20、21節)「再臨のキリスト」であると明言なさいました。                
 しかし、この主イエス様の「お言葉」は、御自分の死刑が決まる「一言」であると知っていながら、覚悟をもって言われた「一言」でした。御自分が何であるかを、公の場で包み隠すことなく、しかも命を懸けて宣言されました。

この言葉を聞いた大祭司は、人の姿をした主イエス様が「神の子、神である」と言われたので「とんでもないことだ」とその衣を引き裂きました。同席していた議員たちも主が「死刑に当たる」と断定しました(マルコ福音書14章63、64節)。その後、議員や下役たちは、主の顔につばきをはきかけ、目隠ししてこぶしや平手でイエスを打ったりして辱しめました(14章65節)。

後に、主イエス様の愛弟子であった使徒ペテロは「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいを ゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(Ⅰペテロ書2章22節~24節)と主の御受難と私達の救いの成就を証ししています。

                 2021年9月26日第4聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎