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2021年10月3日礼拝説教要旨
新約聖書  マルコ福音書 15章1節~15節

    「主イエス様の裁判(2)」

「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」     (箴言29章25節)
「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」                                   (ローマ書12章2節)
「神は わたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」               (Ⅱコリント書5章21節)


 四福音書の記事を考え合わせると、主イエス様は6回の裁判を受けられたことが分かります。

まず主は、夜が明けるまでに当時の大祭司カヤパの舅(しゅうと)で、前の大祭司であったアンナスによって「第一回目の宗教裁判」を受けられ、続いて義理の息子で大祭司のカヤパもとで「第2回目の宗教裁判」を受けられました(ヨハネ福音書18章13節~24節)。この「第2回目の宗教裁判」は先週の礼拝で学びました。主イエス様が、「ほむべき者の子、キリスト」(14章61節)であり、「人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見る」(14章62節)と宣言されたのでした。

今日の聖書箇所の「マルコ福音書15章1節」には、ユダヤ教の規則に従って、夜明けと共に「主イエス様の死刑」を正式に決定する「第3回目の宗教裁判」のことが記されています。 そこで「協議をこらした」のは、主イエス様が「ユダヤ人の王」と名乗ってローマ帝国に盾突き政治的反乱を企てている政治犯に仕立てて訴え、総督ピラトに死刑にしてもらうためでした(15章1節)。

それで、総督ピラトの許で行われた「第4回目の裁判」では、ピラトが主イエスに「あなたがユダヤ人の王であるか?」と質問しました。主は「そのとおりである」と答えられましたが(15章2節)、最新の聖書翻訳では「それは、あなたが言っていることだ」(聖書協会訳)との意味です。それで、祭司長たしは、主をいろいろと訴えました(15章3節)。例えば「この人が国民を惑わし、貢をカイザルに納めることを禁じ、また自分こそ王なるキリストだと、となえている」(ルカ福音書23章2節)とか、主は「ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動している」(23章5節)と訴えたのです。

 一方、ピラトは、主が「ガリラヤ」で活動していたと聞いたので、「過越の祭」でエルサレムに来ていたガリラヤの領主ヘロデの許に主を送りました。「マルコ福音書」には省かれていますが「第5番目の裁判」でした。主は、そこでも「何もお答えにならなかった」(ルカ福音書23章9節)のでした。それで領主のヘロデと兵士は主を侮辱し嘲笑った後、再び総督ピラトの許に主を送り返しました(23章11節)。

それで、最後の裁判である「第6回目のピラトの許での裁判」が始まりました(マルコ福音書15章4節~5節)。ここでも、主はどんな質問に対しても「何もお答えにならなかった」のでした。その姿は普通の犯罪人と異なり、ピラトも「非常に不思議に思っ」(マタイ福音書27章14節)て主の無罪を直感しました。

そこでピラトは一計を案じ、過越祭に一人の囚人を赦免する習慣を用いて、民衆が要求した「暴動を起こし、人殺しをして捕らえられた暴徒のバラバ」の代わりに、「無罪に違いない」主を助けてやろうとしまた。祭司長たちが主をねたみのために引き渡したことが分かっていました(マルコ福音書15章6節~10節)。

 更に、ピラトの妻が「あの義人(正しい人)には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」(マタイ福音書27章19節)と伝言してきました。それは、妻の「夢によるお告げ」(1章20節、2章12節、19節、22節参照)でしたが、ピラトに大きなインパクトを与え、主の無罪が揺るぎのない確実なものとなりました。

しかし「ねたみ」に駆られた祭司長たちは見境なく、「主イエス様の息の根を止めたい」と群衆を扇動しました(マルコ福音書15章11節)。一方、ピラトは主が無罪であることを訴え続けたのですが、「十字架につけよ」「十字架につけよ」と連呼する「群衆の声」(15章12節~14節)を無視すると暴動になりそうだったので、遂に「群衆を満足させようと思って・・・バラバをゆるしてやり、イエスを…十字架につけるために引きわたし」(15章15節)ました。

この出来事を「マタイ福音書」では「ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、『この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい』。すると、民衆全体が答えて言った、『その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい』。そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした」(同福音書27章24節~26節)とあります。暴動になれば、ピラトは自分の立場と地位が危うくなるので、「正しさや真理」ではなく「保身」を選びました。

一方、ここで「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と言った民衆は、40年後(紀元70年)にローマ軍に攻め込まれ、「祖国滅亡」という悲惨この上ない結末を迎えました。救い主イエス様を拒むことの愚かさと結末の悲惨さには心が痛みます。私達は、「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる」(Ⅰテモテ書2章4節)との御心を受け止め、隣人の救いのためにお祈りしましょう。   

最後に、主の無罪が明らかであるにも関わらず「十字架による死刑」が確定した「不当裁判」「冤罪裁判」に関係した「三種類の人」につて考えます。第一は、主の無罪を知りながら、人を恐れて保身に走り、主を十字架刑にした「総督ピラト」です。「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」(箴言29章25節)の通り、人を恐れたピラトは天寿を全うすることなく行き詰まり崩れ去ったと言われています。第二は、主イエス様を妬み「十字架につけよ」を連呼したユダヤ人の指導者と群衆です。彼らは主を誤解し、「世の流れ」に押し流され紀元70年の祖国滅亡を刈り取りました。私達は、「この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」(ローマ書12章2節)との御言葉に従いましょう。第三に、主の身代わりで死刑を免れたバラバです。御言葉に「神は わたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(Ⅱコリント書5章21節)とあります。私たちもバラバと同じように、主の身代わりで救われたのです。

私たちは、御言葉の光によって立つべき立場をしっかりと受け止め、「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知」って歩んで参りましょう。 
          2021年10月3日(日) 第一聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎