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2021年10月10日礼拝説教要旨

 ぶどう園の労働者の譬え

『そこで彼はそのひとりに答えて言った、「友よ、わたしはあなたに対して不正をしていない。あなたはわたしとーデナリの約束をしたではないか。自分の賃金をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ」』。                              (マタイ福音書20章14節)

このぶどう園の労働者の譬え話をとおして二つのことを教えられたいと導かれています。1つは『神の平等』ということと、そして2つめは『人生の最後を全うすることが大切だ』ということです。

譬え話の展開は、ぶどう園の主人が収穫期になったので臨時労働者を1日1デナリの約束で雇いました。ところが昼の12時ころになっても仕事にありつけない人を見つけたので、その人を雇い入れました。また午後3時にも同様にしました。ぶどうの収穫は一気にしなければなりませんので、こんな人も大切な労働者なのです。

ところが、夕方の5時に雇われた人がありました。彼は家に帰るとお腹を空かして待っている子供たちのことを思うと、帰るにかえれなかったのです。ですから夕方の1時間でも働けることを喜び、一所懸命に働いたのです。

1日の労働を終えて主人は、最後に雇った人から賃金を払ったのですが、それは1デナリでした。1デナリは1日分の労働賃金です。その人は思いがけない収入に喜んだことはいうまでもありません。ところが、それを見て他の労働者たちは、「あの人たちが1デナリの賃金をもらったのだから、自分たちはもっとたくさん貰えるに違いない」と期待しましたが、主人が支払ったのは同じ1デナリでした。そこで最初から働いた労働者が「不公平なことをする」と言って文句を言ったのです。

そのとき主人は、「わたしは決して不正はしていない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか」と言い、『この最後の者にも、あなたがたと同様に払ってやりたいのだ』と言ったのです。この言葉は神の心です。つまり神はすべての人を同じょうにとり扱ってくださるのです。働きが大きいから、また少ししか働かなかったからといって差別をなさるような方ではないのです。

マタイ福音書5章45節に『天の父は、悪い者の上にも、良い者の上にも太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる』とあります。つまり神は正しい者にも、そうでない者にも同様に扱ってくださるというのですなんという恵みではありませんか。

さて、話を少し変えて、朝早くから雇われた労働者は、若いころから信仰に入った人たちのことです。12時ごろに雇われたのは人生の半ばに救われて信仰に入った人たちです。そして午後5時とは人生の夕暮れどきに救われた人たちのことですそして神は若いときに救われた人も、人生の半ばに救われた人も、また人生の夕暮れどきに救われた人も同じように扱ってくださる、ということを教えているのです。

一見、これは神の不公平で矛盾をしているようにみられますが、しかし神の目からご覧になるとき、決して不公平ではないのです。人生の若いときに救われた人は、これまでの何十年という人生を神の恵みとみ守りの中を生かされてきたのですから『わが恵み、なんじに足れり』です。それだけでも感謝すべきことです。

ところが、人生の晩年、また夕暮れどきに救われた人は、救われるまでは自分の好き勝手をして生きてきたかもしれませんが、そのためにどれだけ苦しみ、悩みの中を生きてきたか分かりません。そんな人を救うのは神の恵みであります。

天国は不思議なところです。人生の途中から走っても、終わりごろに飛び込むように駆け込んでも、とにかくゴールに着けばいいのです。また、最初からどんなに長く走ってきても、その最後を全うする、つまりゴールに到着しなければなにもなりません。とにかく大切なことは天国のゴールに入ることです。

昔、ボストンで女子マラソンがあり中継をしていました。1人のランナが猛烈な記録で走っており、後者のランナーが見えないくらいなのです。アナウンサーは「これはたいへんなことになりました。驚異的な記録が生まれます…」と声を大にして実況していました。そこでわたしもどんな記録が生まれるのかと見ていました。

 ところが40キロ地点でそのランナーは走るのを止めて道路上にうずくまってしまいました。腹痛をおこしたのでしょうか。そして道路から離れてしまいました。つまり走るのをやめて落伍してしまったのです。

 その後に走ってきた2位のランナーは、自分の前に走っていたランナーが見えないので当然自分は2位だと思ってスタジオに入りましたら、猛烈な歓声で迎えられて驚いていました。そしてゴールに入ると、なんと自分が1位で優勝をしたことを聞かされてびっくりした表情をしていました。

先頭を走っていたランナーは40キロ地点まで凄い記録でしたが、最後まで走りきることができませんでしたので、落伍者となりました。最初はどんなにいい記録で走っていても最後を全うできなければなんにもなりません。わたしたちの信仰生涯も、若いときから長い間、どんなに一所懸命に走っていても最後が全うできなければ天国の栄冠を得ることはできません。

姫路福音教会の末永弘海先生は、ある説教集の中でこんな言葉を残されています『よく生きることは、長く生きることよりも大切です。そしてその終わりが特に大切です。何故なら、そこから天国に連なっているからです』。大切なことは人生の最後を全うすることです。わたしたちはイエス・キリストの救いにあずかりクリスチャンになったときから、一様に天国競争を走るランナーとなったのです。そして沿道には信仰の先達たちが声援を送ってくれているのです。とにかく天国競争は遅くてもいいのです。最後まで走り抜いてテープをきることが大切なのです。

最後に、旧約聖書(歴代志下26章)に登場すにウジヤ王(別名アザリヤ)の生涯について話ます。彼は父が早く死んだために若干16歳のときに王位に就き、52年間も在位して南ユダ王国を強大な国とした人です『ウジヤは非常に強くなったので、その名はエジプトの入り口にまで広まった』とあります。また『こうして彼の名声は遠くまで広まった。彼が驚くほど神の助けを得て強くなったからである』とあります。

若干16歳で王位に就いた人がどうしてこんな強大な王国を造ることができたのでしょうか。『彼は神を畏れることを自分に教えたゼカリヤの世にある日の間、神を求めることに努めた。彼が主を求めた間、神は彼を栄えさせられた』とあります。つまりここに登場ゼカリヤは祭司でしたが、ウジヤ王の皇太子の時代からの守役で、ウジヤ王が将来王となるための帝王学と同時に、神を畏れることを教えたのです。ですから若くして王位に就きましたが、神を畏れる敬虔な王となりましたので、神はこの国を栄えさせたのです。

ところが、『彼は強くなるに及んで、その心は高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った』とあります。そして王は祭壇に上って自ら香を焚こうとしました。それを見た祭司アザリヤが忠告をしました。そのとき王は香を握りしめていた手を高く上げて、祭司に向かって怒りを発している間に、彼の顔に『重い皮膚病』が発生したのですそして祭壇から追い出され、彼が死ぬまで離れ殿に隔離されたというのです。

なぜ彼はこんな失敗をしたのでしょうか。実はこの頃に守役であったゼカリヤが死んだと言われています。それまではどんなに立派な王になってもゼカリヤという人がいるかぎり彼の頭があがりませんでした。ところがその人がいなくなり、彼を忠告する「目の上のたんこぶ」のような人がなくなったからです。自分を忠告する人を嫌ってはなりません。むしろそんな人を大事にしなければなりません。そして謙遜にその人の忠告を聞く人は成功します。

さて、ウジヤ王の最後ですが、彼は間もなく死にました。そして王が葬られたところが書いてあります。『ウジヤ王は先祖たちと共に眠ったので、王たちの墓に連なる墓地に葬った』。彼は五二年間も南ユダ王国のために尽くし、強大な王国を築いた功績者です。ですから歴代の王家の墓に葬られても当然のことです。ところが聖書には『王たちの墓に連なる墓』とあります。これは何故でしょうか。つまり最後が全うできなかったからです。わたしたちの信仰生活も、その最後を全うすることができなければ、つまり天国競争のゴールに入らなければすべてが無駄になってしまうのです。大切なことは最期を全うすることです。午後5時から働いた人も、たった1時間だけでしたが、一生懸命に働いたので同じ恵みを受けたのです。 

                     2021年10月10日(日) 聖書礼拝説教要旨 坊向輝國