本文へスキップ

message

2022年7月24日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所 使徒行伝10章1節~16節 
     

    「主の御前にまかり出る礼拝」


「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」
(使徒10章15節)


「今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです。」       
(使徒10章33節)


この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」     
(エペソ書1章14節)

 

 「カイザリヤ」とは、パレスチナの地中海沿岸にあります港町で、ユダヤの国を支配するローマ総督府があった海洋要塞都市です。そこにはローマの軍隊が常駐し、「イタリヤ隊」と呼ばれます歩兵部隊に百卒長(百人隊長)の「コルネリオ」という人物がいました。彼は異邦人(外国人)でありながら、家族ぐるみで主なる神様を畏れ崇め、ユダヤ教徒の徳目の「民に数々の施しをなし、絶えず神に祈」る信仰生活をしする信仰心の篤い人物でした(使徒10章1節~2節)。何かの機会に真の神様の存在を知らされ、ユダヤ教の信仰に導かれたのでしょう。

 しかし、そのような出来事や多くの施しや祈りの生活だけでは、「本当の救い」に与かっている訳ではありません。大切な「主イエス様の福音」に欠けていました。それで神様は、「福音」をコルネリオとその家族と関係者に聞かせようとされました。

 コルネリオは、毎日3回(朝、昼、夕方)の真実な祈りを捧げる生活に励んでいました(10章3節)。その午後3時の祈りの時に天使がコルネリオに現れて「ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい」と語り掛けました(10章4節~6節)。しかし、天使は決してコルネリオに大切な「福音」を語りませんでした。

 「福音」とは、罪の赦しを経験したことのない「清い存在」の天使によってではなく、「罪を赦された罪人たち」によって伝えられます(Ⅰコリント書121[現代訳])。この原則は全時代の全世界でも変わりません。罪を犯したことのない「清い天使」ではなく、罪を赦された経験を持つ「罪人の人間」によって、「福音」は語り伝えられます。

 その時、神様が用いられたのは、主イエス様を「三度」も否んで裏切りながら、全てを赦されて初代キリスト教会の代表とされた使徒ペテロでした。この時、コルネリオの信仰心の篤さは、家族のみならず部下の兵士にまで及ぶものでしたが、天使によって語られた「ペテロを・・・招きなさい」との御言葉に忠実に従いました(10章5節、7節、8節)。

 一方、約60km離れた「ヨッパ」にいるペテロはユダヤ人クリスチャンでしたから、コルネリオのような異邦人と交わったり、救いのために労する人物ではありません。何故なら異邦人は、⑴偶像礼拝 ⑵男女間の不品行 ⑶旧約聖書で規定される「汚れた食物」を食べ汚れていると確信していて、ペテロは「異邦人との交わり」を拒否しました。主イエス様の在世当時の教え(マタイ福音書10章5節6節、15章24節)にも従っていました。それでコルネリオの遣わす使者が来ても「門前払い」「玄関払い」となるはずでした。ところが、神様は御自分のご計画(世界宣教)を進めるために不思議なことをなさいました。

 昼の12時は「食事の時間」というよりも、ユダヤ人にとっては「お祈りの時間」でした(使徒11章5節参照)。その時、主なる神様はペテロに、たとえ「汚れた異邦人」でありましても「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」(10章15節)と3回も大切な御心が示され(10章9節~16節)、コルネリオが遣わした使者を受入れるようにペテロに語られたのでした。

 このように、大切な神様の御旨は祈り(デボーション)の時に示されます(10章3節、9節)。現代の私達にも、1日5分、10分、15分でも、朝に聖書を読んで祈る「デボーションの時」に神様の語り掛けを聞く者となりましょう。

 この時、3回も同じ幻を見せられたペテロですが、「異邦人は汚れている」という偏見を改めることは出来ませんでした。そこで、主は御霊の働きをもってペテロが御旨に従うように導かれました(10章17節~23節の前半)。

 翌日、ペテロはコルネリオの家に向けて出発しました。コルネリオは家族・親族・親友にまで声を掛けて待っていました(使徒16章31節、Ⅰテモテ書2章4節)。それは愛から出ています(Ⅰコリント16章14節)。この時、コリネリオの「ペテロへの敬意」が度を過ぎたものでしたので、ペテロは、「人間を崇めてはなりません。背後の神様に目を留めるように」と自分の足元にひれ伏して拝むコルネリオを起こして立ち上がらせました(使徒10章23後半~26節)。

 その後、ペテロがユダヤ人クリスチャンが決して行わなかった異邦人の家の訪問を今回あえて行った理由を述べました(10章28、29節)。それに対してコルネリオもペテロを招いた経緯について話しました(10章30~32節)。

 そして、コルネリオを始め家族・親族・親友たちは、ペテロを迎えて神様からの語り掛けを「残らず伺おう」と、「神のみ前にまかり出」た(神の前に出てた)のでした。コルネリオは、ペテロを目の前にしていながらも、「神の前にまかり出る」ことをハッキリと意識していました。それは、ペテロではなく神様の前に出て、その語り掛けを聞こうとする姿です(元教団総会議長の駆け出しの伝道者の時期の経験)。私達の礼拝も、山手教会の頭(かしら)である主イエス様が聖書の御言葉より語られる礼拝、「神のみ前にまかり出る礼拝」でありたいものです。

 このように、目に見えない神様を「信仰の目」を持って見る人々の中に、神様は驚くべき祝福を注がれました。初めに、ペテロは、「神は人をかたよりみないかた(10章34節)と大切な真理を語り、更に「すべての者の主なるイエス・キリスト」(10章36節)と語って、「イエス・キリスト様は、ユダヤ人だけでなく異邦人にも救い主です」と力強く宣言したのでした(10章34~36節)。

 現代の私達には当たり前の事ですが、2千年前のペテロにとっては「180度の方向転換」「一大転機」でした。それは、キリスト教がユダヤ教の一派の「ナザレ派」から全人類を救う「世界宗教」となって全世界に広まり、神戸にいる私達、日本人にまで伝えられてきた「出発点」となったからです。

 その「大転換」に伴う確信に基づいてペテロは、⑴主イエス様の公の伝道生涯の出来事、⑵十字架の死と3日目の復活、⑶最後の裁きと大宣教命令について語りました。その内容と範囲は「マルコ福音書」の内容と一致していると言われています(10章37節~42節)。最後に、「主イエス様の御名を信じる信仰によって全ての罪が完全に赦される」という旧約の預言を力強く語リました(10章43節)。すると、この福音のメッセージが語られる最中に「聖霊」が降(くだ)られました(10章44節)。その「聖霊」は、天の御国を受け継ぐ保証です(エペソ書1章14節)

 このようにして、当時のキリスト教がユダヤ教の一派から「世界宗教」に発展して、全世界の人々が救われる「福音」として宣べ伝えられる「始まり」となりました。

         2022年7月24日(日) 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎