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2022年8月7日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所  使徒行伝12章1節~17節

               「天使の助け」

「求め(続け)よ、そうすれば、与えられるであろう。 [捜せ](探し続けよ)、そうすれば、見いだすであろう。門をたた[け](き続けよ)、そうすれば、あけてもらえるであろう。」
(マタイ福音書7章7節-8節)

「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。」
(マタイ福音書18章19節)

「たとえ、遅くなっても待ち望め。それは必ず来る、遅れることは ない。」
(ハバクク書2章3節後半[協会共同訳])


 今日は、「世界宗教」に脱皮しようとする「キリスト教会」を襲う迫害と、それに対抗して捧げられた「教会の祈りの姿」を通して、神様の御心を知らせていただきます。

 その迫害の首謀者の「ヘロデ王」(使徒行伝12章1節)とは、幼いイエス様を殺そうとしたヘロデ大王(マタイ福音書2章16節)の孫の「ヘロデ・アグリッパ」で、洗礼者ヨハネを殺した「ヘロデ・アンテパス」(マルコ福音書6章)の甥です。「血は争えない」と言われる通り、ヘロデ大王のDNAをそのまま受け継いでいたのでした。

 キリスト教会がペンテコステの日に誕生した頃の「紀元30年代」は、教会は「ユダヤ教の一派」と見られ、一般のユダヤ人は勿論、エルサレム神殿の祭司達まで「キリスト教」に入信しました(使徒6章7節)。その後10数年の時が流れ、紀元40年代の前半に「ヘロデ・アグリッパ王」がパレスチナを治めていたこの頃は、「キリスト教」がユダヤ教の枠の中に納まらず、「福音そのものによって、全ての人が救われる」という世界宗教の「キリスト教」に脱皮し始める時期を迎えていました。それで、ユダヤの国の一般の民衆やユダヤ教の指導者たちは、初期の時代とは違いまして「汚れて罪深い人々と思われた異邦人を教会に受入れたキリスト教」に反感を持ち迫害していた時期でした。

パレスチナの実質の王権を与えられた「ヘロデ王」は、世界宗教に脱皮しようとしていた「キリスト」教に強い反感を持つ「ユダヤ人」の関心を買おうとエルサレムの「初代キリスト教会」を迫害しました。その第一の対象は、ヨハネの兄弟で使徒の「ヤコブ」(使徒12章2節)でした。彼はペテロと並んで、主イエス様のお弟子達、使徒達の中で中心人物であり、最初の殉教者となりました(12章1節~2節)。エルサレムの教会にとっては、大きな打撃で、教会の中では悲痛な叫びと共に、「何故、神様に愛されているヤコブが殺されなければならないのか?」との疑問も起こったと思います。

 更に、ヘロデ大王の血を引く「ヘロデ・アグリッパ王」は、この事に「味を占めて」、次に教会の中心人物であるペテロにも手を掛けました。彼を捕えて「過越祭」後に、民衆の前で処刑(死刑)するためでした。そのために牢屋に投獄して4人一組の兵士4組に監視させる程の厳重な警備が敷かれました。この時、エルサレムの教会は、使徒達の中から最初の殉教者ヤコブを出して痛んでいた矢先、更にその上に最高指導者のペテロも投獄され、最大の危機に瀕していました(12章3節~4節)。

 このように、この世の権力に対して、キリスト教会は全く無力に見えます。しかし、教会には「最も有効な方法」である真の神様への「祈り」が備えられていました。ある牧師は、「神を信じることは、祈りを信じることだ」と言われましたが、神様が生きて働かれることを信じるからこそ、「祈りに答えてくださる神様を信じて祈る」ことが出来ます。

 教会は、何をするよりもまず祈ったのでした。この事は、最も大切な事です。何故なら教会は、主イエス様から「祈りの家」(マタイ福音書21章13節)と呼ばれたからです。更に教会の祈りは「熱心な祈り」でした。教会が、中心人物を失うという危機的な状況の中で、信徒たちは神様に向かって熱心に叫んだのでした。この「祈り」における熱心さも大切です(使徒12章5節)。

 「熱心な祈り」とは、具体的に何を指すかといいますと、有名な聖句に「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。・・・」(マタイ福音書7章7節-8節)とあります。「求めよ」とは原典のギリシャ語の言葉では「求め続けよ」「求め続けなさい」の意味なので、「与えられるまで、神様に求め続けなさい」との継続の意味があります。「祈り続ける祈り」が「熱心な祈り」の具体的な姿の一つです。教会は、ペテロ救出のために祈り続ける「熱心な祈り」を捧げさました。

 また「一人で祈る祈り」も神様は聞かれるが、2人が心を合わせて祈る祈りは更によく聞かれます(マタイ福音書18章19節)。そして、2人だけでなく更に「大ぜいの人が集まって祈」(使徒12章5,12節)る祈りに主なる神様は力強く答えてくださいます。山手教会を始め多くの教会で、祈祷会が続けられているのはこのためです。

 このようなエルサレムの教会の、⑴熱心な「求め続ける祈り」⑵「大勢の人が集まって」心を一つにして祈る祈りに神様は鮮やかに答えられました。ペテロは、民衆の前に引き出されてヘロデ王の人気取りの為に処刑される、その日の前夜(「その夜」とは、ユダヤの国では夕方から一日が始まるので「前夜」のこと)に助け出されました(12章6、7節)。旧約聖書の12小預言書の「ハバクク書」には「たとえ、遅くなっても待ち望め。それは必ず来る、遅れることはない。」(同書2章3節後半[協会共同訳])とあります。神様は全てをご存知で、この時「間一髪」とも言うべきタイミングで「御使」によりペテロを救出されました(使徒12章6節~10節)。ペテロは寝ぼけ眼(まなこ)で何が何やらハッキリせず、「彼には御使のしわざが現実のこととは考えられず、ただ幻を見ているように思われた。」(12章9節後半)のでしたが、それは「現実」でした。

 「ヘブル書」に御使(みつかい)たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。」(同書1章14節)とあります。ビリー・グラハム牧師は「聖書の時代」(週報裏表紙)だけでなく、「現代」においても「主の天使」の力強い働きを報告しています(ベートン宣教師夫妻の証し他)。私達自身も今までの生涯で「天使の助け」を頂いたのではないでしょうか。私達が本当に困った時、命の危険と隣り合わせになった時、「どうしていいのか?」分からない困難に出会した時、その都度、不思議な守りや助けを頂いて、困難を切り抜けて現在に至っています。

 私達が、「神様が助けてくださった」と思って心から感謝する時、実際に私達を助けるために働いてくれたのは、主の遣わされた「天使たち」です(ヘブル書1章14節)。何故なら、父なる神様も主イエス様も今は天におられるからです。私達は、遣わされてきた「天使」を肉眼で見ることは出来ませんが、「後で分かる」というのが普通かもしれません。ペテロも、当座は「御使の助け」が理解出来ず、「幻を見ている」と思いましたが、後でハッキリと天使の働きを悟りました(使徒12章11節)。

 現代の私達も、「助かった」「守られた」と思う時、「天使を遣わしてくださった主なる神様」に心から感謝し、聖名を崇めましょう。
                    2022年8月7日(日)聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎