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2022年11月27日聖日礼拝説教要旨

聖書箇所  使徒行伝15章12節~21節
    
       「エルサレムの教会会議と御言葉」

    
「残っている人々も、わたしの名を唱えているすべての異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである。世の初めからこれらの事を知らせておられる主が、こう仰せになった」
(使徒15章17、18節)

「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」
(使徒行伝16章31節)

「いっさいのことを、愛をもって行いなさい。」
(Ⅰコリント書16章14節)

 

 当時のキリスト教会にとって、「異邦人クリスチャンにもユダヤ人と同様に割礼を受けて、モーセの律法を守らせるべきか、どうか。」が「最大の問題」でしたので、エルサレム会議では激しい争論が続きました(使徒15章1~7節前半)。その中で、主イエス様の一番弟子で初代キリスト教会の代表者のペテロが立ち、まったくの異邦人であった「ローマの百卒長(百人隊長)」とその家族に、「主イエス様の十字架と復活の福音」を語ったところ、「ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだっ」(10章44節)て、自分たちユダヤ人と同じように救われたと証しました。すると、それまで「喧々諤々」の白熱した議論をしていたのに、この「ペテロの証し」を聞くと「全会衆は黙ってしま」いました(15章12節前半)。

 続いて、エルサレム教会では新参者の「パウロとバルナバ」が、同じことを経験したということで、「彼らをとおして異邦人の間に神が行われた数々のしるしと奇跡」(15章12節後半)を説明しました。ペテロの経験(10章)だけではなく、各地で主イエス様の福音が宣べ伝えられ、多くの異邦人たちが救われて、信仰に入っていたのでした(13章~14章)。ですから、異邦人が、主イエス様を信じるだけで救われるのは明らかでした。

 そこで、「キリスト教の本部教会」である「エルサレム教会の監督(牧師)」のヤコブが、「エルサレムの教会会議」の「総括」をして、結論を導きました。このヤコブは、主イエス様の「肉親の弟」です。お母さんのマリヤや、主イエス様の兄弟については「この人(イエス様)は 大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」(マルコ福音書6章3節)と記されています。

 主イエス様と同じお母さんのマリヤのお腹から生まれた、実の弟のヤコブは、主が「公の伝道生涯」に立たれるまでの約30年近く、兄のイエス様と一番身近にいたのですが、イエス様を「神の子、救い主キリスト」とは信じていませんでした(ヨハネ福音書7章5節、マルコ福音書3章21節)。むしろ、「気が変になってしまって、しょうがない兄貴だ」思って軽蔑していたのでした。

 でも、その真実を知ったのは、主イエス様が、あのカルバリの丘の十字架に付けられ、何の罪もないのに死に追いやられ、無残な死を遂げられた、その後のことでした。主イエス様は、三日目に死人の中から復活され、ペトロを始め、お弟子達に御自分を現されました。そして、「(復活されたイエス様が)そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ 」(Ⅰコリント15章7節)なさったのでした。その時以来、弟のヤコブは全く変わりました。主イエス様を「気が変になってしまって、しょうがない兄貴」と思って軽蔑していた「不信仰」と「罪」を悔い改め、心から主イエス様を「救い主、キリスト」と信じて救われました。そして、ヤコブは「エルサレム教会の監督(牧師)」となりました。

このように、主イエス様でも家族伝道は苦労されました。でも、神様が働かれる時には、家族が「がらりと変わって」信仰される時が来ます。焦らず、失望せず「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16章31節)と信じて祈り続けましょう。主御自身も「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」(ヨハネ福音書11章40節)とおっしゃいます。    

 「エルサレムの教会会議」が行われる頃は、ヤコブは「エルサレム教会の長老たちの中では、指導者の地位を占め、第一人者」となっていまして、会議に出席していた「人々の視線は、すべての人々の尊敬と信頼とを受けていた主の兄弟ヤコブにそそがれた」(ブルース『使徒行伝』336)のでした。そこで彼は、まず、ペテロを敢えてユダヤ名で「シメオン」と呼んで、「ユダヤ人クリスチャンとして活躍するペテロ」が行った伝道で「異邦人が信仰により救われ、ユダヤ人クリスチャンと同じ様に聖霊を受けた」という証しを全面的に承認したのでした。

 そのうえで、「異邦人が信仰によって救われる」という「神の恵みの事実」を、旧約聖書の「アモス書」(ギリシャ語訳の旧約聖書[70人訳聖書])の「残っている人々も、わたしの名を唱えているすべての異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである。世の初めからこれらの事を知らせておられる主が、こう仰せになった」(同書9章11、12節、使徒15章17、18節)との御言葉から示したのでした。そして、信仰を持つユダヤ人だけでなく異邦人も信仰によって救われることが「神の御計画」であると語ったのでした。そこで、「エルサレム会議」に出席していたユダヤ人クリスチャン全員が、「異邦人が信仰によって救われる」と言う「神様の御心」をしっかりと受け入れたのでした。何故なら、ユダヤ人が信頼して止まない「聖書の御言葉」に、そのよう記されていたからです。

 現代の私達も、色々な「神様の奇跡の御業」を体験しますが、それを説明する聖書の御言葉によって、「アーメン(その通りです)」としっかり受け止められるのではないでしょうか。柘植不知人先生も「説教も個人伝道も御言を与へ植付ける為にするので、証詞は助にする丈(だけ)のことである。御言さえ与ふれば更生(うまれかわ)る。」と語り「証だけでなく御言葉を語ることが大切である」とされました(『活水』第33号)

 今まで見て来ましたように、ヤコブは邦人が、主イエス様を信じるだけで救われる」ことを聖書的根拠をもって裏付けたのですが、その後で、「異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらい(割礼やユダヤ教にかかわる律法を行わせること)をかけてはいけない。」(使徒15書19節)と「エルサレム会議の議長」として「裁決」を下したのでした。 

 最後にヤコブは、今まで述べてきたこととは一見矛盾するような提案として、異邦人クリスチャンも「偶像に供えて汚れた物(偶像礼拝、Ⅰコリント8章7~13節)と、不品行(ヨハネ福音書8章7節)と、絞め殺したもの(創世記9章4節)と、血(レビ記17章11節)とを、避けるように」勧めました(使徒15章20,21節)。これらは、ユダヤ人が絶対に嫌がり拒否することですから、同じ主イエス様を仰いで礼拝する「ユダヤ人クリスチャン」と「異邦人クリスチャン」の間では、「愛の配慮」をもって避けるようにと勧めたのでした。使徒パウロは「いっさいのことを、愛をもって行いなさい」と勧めています(Ⅰコリント書16章14節)。現代の私達も、相手の方々を尊び、共に天の御国を目指して歩んで参りましょう。

       2022年11月27日() 聖日礼拝説教要旨 竹内紹一郎