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2025年11月23日礼拝説教要旨

聖書箇所 ヨハネ福音書6章36節~51節①


           「神様の選びと導き」


「本当に天のお父様が選んでいてくださった人は皆、わたしの所に来ますし、わたしの所に来た人を、わたしは決して退けません。」
(ヨハネ福音書6章27節[現代訳聖書])

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」      
(ヨハネ福音書15章16節)

 

今日の聖書箇所には「神様の選びと結果」が記されています。私達の人生においても、学級委員長・生徒会長などに選ばれたり、職場でプロジェクト長とか代表取締役とか、地域社会では自治会長などにも「選ばれる」ことがありますね。信仰の世界でも、私達は「父なる神様の選び」に与っているのです。

 今日の中心聖句は「ヨハネ福音書6章37節」ですが、別の聖書では「天のお父様が選んでいてくださった人は皆、わたしの所に来ますし、わたしの所に来た人を、わたしは決して退けません」(同書6章27節[現代訳聖書])と翻訳していまして、「父がわたしに与えて下さる者は皆」とは「天のお父様が選んでいてくださった人は皆」との意味で、「父なる神様に選ばれる」という「神様の選び」について記しているのです。その「選ばれた人」は全員、「わたし(イエス様)に来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。」と続いています。今日は「神様の選びとその結果」について導かれたいと思います。

今日の週報の裏表紙に記したのは「神様の具体的な選び」についての証です(週報裏表紙参照)。証を記した女性は、教会の塔の十字架を見て、7歳の時に教会に導かれましたが、4歳の時も母親の親友の誘いで母親と共に教会の「聖書の学び会」に行って、聖霊が私の幼い心に触れてくださった経験をしました。この様に、父なる神様は彼女を選んで、幼い時から主イエス様の許に導き、救の恵みに与らせようとして下さいました。そして10歳の時に彼女が入信し、25年程後に両親の求道生活が始まり、数年後、父は…キリストを救い主として受け入れたのでした。母親は最初に教会に導かれたのですが、50年以上経って最後にイエスさまを心にお迎えしたのでした。主イエス様は「多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。」(マタイ福音書19章30節)と仰るように救いに与る順番は色々ですが、父なる神様に選ばれている事実が最終的に実を結ぶのです。

皆さんの中にも、「あの時、神様に選ばれて、今の私がある」「あの時、父なる神様が引き寄せてくださった」と思い出される方があるかもしれません。人は生涯を振り返り「神様の選び」と「幾つもの神様の導き」に思い当たることがあると思います。主イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」(ヨハネ福音書15章16節)とありますように、主なる神様が私達を選び、そして導いてくださっています。

 私も今振り返りますと、確かに「神様の選び」と「幾つもの神様の導き」を思い出します。私は滋賀県の栗東市の農家の後継ぎの長男として生まれ、キリスト教とは「縁もゆかりもない」環境で育ちました。周りを見渡しても一人もクリスチャンはいない、そんな人が居たら「白い目で見られる」という環境でした。しかしクリスマスになると、父親は大きなクリスマスケーキを買ってきてクリスマス・ツリーも飾りました。でも私は、誰の誕生日をお祝いしているのか知りませんでした。

 小学生の頃、近くの道路で白いワンボックスカ―が止まり、外国人の宣教師が紙芝居をして下さった記憶があるのですが、紙芝居の内容も宣教師の話も何も覚えていません。でも神様は、一歩一歩、キリスト教と無縁だった私に近づき、主イエス様の許に導いてくださいました。

 「聖書」に触れたのは、妹が高校でギデオン聖書を貰って私にくれた時でした。私はその聖書の「マタイ福音書1章」を読もうとしましたが、カタカナの名前が並んでいるので直ぐに投げ出しました。でも「聖書の学び」への招きは何回もありました。京都の高校の通学途中に「聖書通信講座」の案内と返信ハガキを貰いました。何をどう考えたかが思い出せませんが住所・氏名を書いて返信しました。今も当時も「聖書通信講座」の案内を1000枚配っても、返信は1~2通と思われます。その一通に記された私の名前を覚えて見ず知らずの心あるクリスチャンの方々は、私が救われ主イエス様の許に行くように祈ってくださったと思います。

 祈られて私は、18歳の時にNHK教育テレビ(今のEテレ)で放映された札幌農学校の校長のW.S.クラーク先生と教え子の生涯を描いた「クラークの系譜」という番組を見て、いたく感動しました。特に内村鑑三の生き様に傾倒して「機会があれば教会に行ってみたい」と思うようになりました。

 その後、京都の堀川通を歩いていましたら、「清和キリスト教会創立50周年記念」(青年たちによる)「百日伝道集会」のチラシ(ビラ)を貰いました。「クラークの系譜」の影響もあって、すぐに「行ってみよう」と思ってビラに書いてある日時に教会を訪ねました。カトリック教会の立派な煉瓦造りの教会堂を思い浮かべて行くとトタン葺きの古臭い会堂で、すこし気落ちしました。でも、そこには笑顔の青年たちが自分たちで伝道集会をしていたのでした。

 19歳の時に創立50周年だった清和基督教会に導かれ、その後には色々ありましたが、今、同じ「活水の群」の山手教会のこの講壇に立たせていただいています。これは全て「父なる神様の選び」以外に何もありません。霊感賦26番「今にいたるこそ、主の恵みなれ」の通りで、ただただ主の聖名を崇めるのみです。

 ある女性の「神様の選びと導き」と私自身の「神様の選びと導き」を聞いて頂いて、皆さんもご自身の信仰生涯を振り返られて「お心当たり」や「思い出」があると思います。この礼拝堂にお出でになり、主の前におられる皆さんは皆、父なる神様に「選ばれ」、主イエス様の許に「導かれた」方々ですから、主イエス様は決して「拒まれない」どころか、「最も大いなる祝福」を備えていてくださいます。それが、「6章38~39節」にあります「ひとりも失わずに、終わりの日によみがえらせる」という祝福です。

最後の「6章40節」は、以前申しました「ヨハネ福音書の特徴」の「らせん階段の教え」です。「らせん階段」を昇ると一階上がりますが平面的には同じ位置ですね。「らせん階段で一階上にあがる」ように、今までの教えをより高めて「繰り返して」教えている箇所です。

選ばれている皆さんには、「永遠の命」と「終わりの日の甦り(栄光の体への復活)」の約束があるのです(6章40節)。しっかりと「神様の選び」を尊び、「主イエス様のお導き」にお従いして参りましょう。

                     2025年11月23日(日) 聖日礼拝説教要約 竹内紹一郎