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2015年10月11日

 

 

 

柘植不知人先生のペンテコステ

 

 『五旬節(ペンテコステ)の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した』。(使徒行伝21節)

 

 昨日は柘植不知人先生が聖霊のバプテスマを受けられて、丁度百年目にあたりますので、今日は先生が経験された聖霊のバプテスマとその経過について話します。先生がキリスト教に出会って救われたのが、1913年(大正2年)の9月です。家出をして行方不明になった妹を捜して神戸に来て、湊川の新開地の歓楽街を歩いていたとき、歓楽街の真ん中にキリスト教会があるのを見つけました。玄関には「湊川伝道館」と看板が掲げてあり、その横に「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」とありました。

そこで、キリスト教の集会に出るのは初めてでしたが、その聖書の言葉に惹かれて入りました。

 

 そしてイギリスの宣教師ウイルクス師の話を聞き、その晩に回心したのです。彼は自分の40年間の放蕩を悔い改めて。キリストを信ずる生涯に変えられたのです。そしてその晩、これまでの40年間の生涯で迷惑をかけた人や非礼をした人たちに対してお詫びの手紙を書いたと言われています。しかもその数が百余通だったと言われています。これが先生の悔い改めの実だったのです。

 

 また先生は床屋に行って、長髪だった頭を丸刈りにし、ひげを剃り罪人の姿になられました。この当時は丸刈りは「刑務所帰り」と言われてあまり見ることはありませんでしたが、「わたしは罪人の頭である」とその態度で言い表したのです。また絹布の羽織を売って法被(はっぴ)を買って教会に通いました。法被は人力車の車夫が羽織るものです。このようにして自分が罪人の頭であることを言い表したのです。

 

 それから約50日後に洗礼を受けておられます。その前日、英国から休暇を終えて日本に帰られたバックストン先生が洗礼式に立ち会われ、その人たちのためにお祈りをされましたが、その印象を柘植先生は次のように書いておられます。「その祈りは実に荘厳で、あたかも天よりの声に触れたような感じがした。水のバプテスマよりもバックストン先生の祈りによって霊のバプテスマを受けたような心地がした」と。それ以来、バックストン先生を「生涯の師」として敬慕するようになりました。

 

 その後、バックストン先生の勧めにより日本伝道隊の聖書学校に入って修養されました。今日の塩屋にある「関西聖書神学校」の前身です。聖書学校時代の先生はよく祈られました。当時は荒田町に住んでおられましたが、いつも平野の裏山に登って祈られました。いつも同じ場所で防水シートを敷いて祈っていたので、そこだけは草が生えなかったそうです。また、学校でも先生が教室で大きな声で祈られると、窓ガラスがビリビリと響いて、隣の教室では授業ができなかった、と言われたほどの激しいものでした。しかも、この祈りが地を這うような祈りではなく、天に突き抜けて神と相談して、上から怒鳴りつけるような祈りであったと言われています。

 

 ところが、先生は心に問題を覚えるようになりました。それは「自我」の問題でした。先生の救いは40歳にして劇的回心でしたので、先生の証は人々に大きな感動を与え、それを聞いた人々が救われたのです。そこで伝道集会などで証人として用いられるようになりました。ところが、自分の証しが「針小棒大」(物事をおおげさに言うこと)になっていることに気がつき、内心に戦いを覚え、古き自我に苦しむようになりました。

 

 そのために狂えるように山に登って祈られました。またあるときは苦痛に耐えられず自分の頭を打ちたたいて、夜の明けるまで奥平野の山野を走り回ったことも何度かありました。また自分の信仰のなさを嘆いて柱に頭を打ちつけて、自分を懲らしめたこともあったそうです。あるときなどは、浴場に行って「もし自我に死にきっているなら熱くないはずだ」と熱湯に飛び込むといった極端なことまでされたそうです。

 

 そこで先生は、自分が自我から潔められるように祈ることに専念するようになりました。そして、いままで聖霊の火を受けることができなかったのは、自分の自我が神の働きを妨げていることを知ったのです。そして聖霊が十字架を明らかに示されて感涙に咽び、十字架を仰ぎつつ神を崇めることができたのです。このとき聖霊は先生の心に、「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはやわたしではない」との確信が与えられ、また同時に「キリストがわたしのうちに生きておられるのである」と、キリストの黙示が与えられたと話しておられます。

 

 1915年(大正4年)10月10日は柘植先生が聖霊のバプテスマを受けられた日です。それは先生が徹底的聖潔(きよめ)を求められて勝利された後のことでした。その前日に先生の住んでおられた兵庫区荒田町で一斉の大掃除が行われました。この日はどの家庭でも家財道具を庭に出し日光消毒をし、畳をパンパンと叩いて騒々しいものでした。仕事を終えて二階から外を見ると、どの家もたくさんの家財道具を出しているのに、それに比べて自分の家は必要最低限の家具しかなく、先生は「神に従う献身の生涯とはこんなものか」と少し寂しい思いになっておられたとき、庭の隅に風呂敷包みがあるのに気がつきました。

 

 なにが入っているのかつらつら考えたときに気がついたのは、その中に売薬の株とある高貴の筋から拝領した木杯、そして絵画の道具でした。献身したときに未信者の時代のものはみな捨てたはずなのに、どうしてこんなものが残っていたのか考えたとき、もし伝道者をやめたとき、また絵画を描いていけばいい、という魂胆があることに気がついたのです。そこで槌をもって庭に出て風呂敷包みを上から叩き壊してしまったのです。つまり、もう後ろには戻らないという決心、「背水の陣」になられたのです。

 

 このときの心境を次のように話しておられます。「このとき、わたしの心の中には言い尽くすことのできないような喜びと感謝に満たされていくのを感じました」と。

 

 大掃除の翌日、堺の組合教会で集会を持たれたところが、「聖霊の働きが著しく臨在が輝き、説教が終わらないうちに全会衆に罪の意識が起こり、泣き叫び、戦慄し、椅子から転げ落ちる者まであり、最後には全会衆が悔い改め、救いを叫び求める光景は物凄いものであった」と書いています。

 

 その夜、大阪駅で汽車の時間まで駅の裏通りを神を崇めながら歩いていたとき、にわかに大きな力が先生を覆いました。それはバケツの水を頭の上からぶっかけられたような感じだったそうです。しばらくすると、喜びが心の底から湧きあふれて抑えてもおさえきれずゲラゲラと笑いが心の底から溢れ出て、抑えきれないような不思議な経験をされたのです。これが柘植先生の「聖霊のバプテスマ」でした。ペンテコステだったのです。

 

 列車に乗るときも、ハンカチで口を塞ぎ、群衆に背中を向けるようにして神戸の自宅に帰りましたが、喜びが満ちあふれて一晩中「至聖所」と呼んで、いつも祈りの部屋としていた所で、心から神をほめ讃えて過ごされました。このとき以来、聖書を読めばみ言葉が驚くほど光を放ってすべての真理が示されるようになり、読めば読むほど主の断腸のみ思いが内に燃えたのです。

2015.10.11