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2017年3月5日

パリサイ派と安息日論争

 

 

『ある安息日にイエスが麦畑の中をとおって行かれたとき、弟子たちが穂をつみ、手でもみながら食べていた。すると、あるパリサイ人たちが言った、「あなたがたはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのか」。そこでイエスが答えて言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えていたとき、ダビデのしたことについて、読んだことがないのか。すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほかだれもたべてはならぬ供えのパンを取って食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」』。(ルカ福音書6章1節)

 

 

 このところは、イエスがパリサイ派の人たちと安息日問題について論争したところです。事の起こりは、安息日に弟子たちが麦畑を歩いていたとき、麦の穂をつんで殻をとり食べたことが問題となりました。そのことは後に述べます。

 

 ユダヤ人が他の民族と異なる著しい点は、神から彼らに「十戒」が与えられたことです。そこで彼らは、神からの律法が与えられた唯一の民族として誇りを持ち、神の選民(神から特別に選ばれた民)としての自覚を持ったのです。

 

 さて、ユダヤ人は、この神から与えられた律法(十戒)に対して忠実に守っていこうとした結果、さまざまな戒律(生活規範)を生み出したのです。例えば、安息日を完全に守るために、「安息日には何マイル以上歩いてはならない」とか、「鋤や鎌に手を触れてはならない」といった様々な戒律をつくったのです。前者は、安息日を守るために旅行を禁じた規定で、後者は安息日に労働しないための規定だったのです。そして、これらは自分たちでつくった戒律です。このために自分たちが、がんじがらめに、身動きができないような不自然なものにしてしまったのです。そしてイエスはこの戒律からわたしたちを解放するために来られたのです。

 

 このパリサイ派の人たちとの律法論争のはじまりは、弟子たちが麦畑の中をあるいていたとき、空腹になったので麦の穂を摘んで食べたことが、パリサイ派の人たちの間で問題になったのです。つまり彼らは、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで脱穀の労働をしたというのです。これは正しく詭弁(こじつけ)です。

 

 そこでイエスは、昔ダビデがサウル王に追われて逃亡生活をしていたときに空腹になり、祭司しか食べられない食物を食べて緊急避難した例をあげ、律法が大切か、命が大切かと、教条主義的なパリサイ派の人たちに反問されたのです。

 

 また、ルカ福音書14章5節の、イエスが安息日に病人を癒したことが問題になったとき、「もし自分の息子か牛が井戸に落ちたら、今日は安息日だから、と言って助けないのか」と反問し、「安息日に善を行うのと、悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と問われました。そして安息日の戒律よりも人の命の大切さを教えられたのです。

 

 次に、ローマ書13章10節に「人を愛する者は、律法を全うするのである。…どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」というこの言葉に帰する。…だから、愛は律法を完成するものである」と、パウロは律法よりも愛の優越性を説いたのです。

 

 そしてイエスもまた、「新しい戒め」を語られました。マルコ福音書12章29節。「ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。

 

 これは「十戒」の要約です。この十戒は出エジプトをしたとき、シナイ山で神がイスラエルの民に与えられた律法です。そしてこれが、人類の倫理道徳の規範となっています。この十戒は大きく二つに分けることができます。一戒から四戒までは、「わたしのほか、なにものも神としてはならない」、「刻んだ像を造ってはならない」「それに伏しては(礼拝しては)ならない」「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とありますが、これはイエスが言われた第一の戒め、「主なるあなたの神を愛せよ」です。

 

 また五戒から十戒までは、「あなたの父と母を敬え」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」、「隣人について、偽証してはならない」、「隣人の家を(むやみに)むさぼってはならない」は、イエスの言われた第二の戒め、「あなたの隣人を愛しなさい」ということと同じです。これはイエスだけではなく、当時の律法学者ヒルレルも同じことを言っているのです。

2017305