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2017年4月2日

百卒長のしもべの癒し

 

『イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。・・・使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた』。(ルカ福音書6章48節)

 

 このところは百卒長の僕(しもべ)の病気が奇跡的に癒されたところです。イエスはガリラヤ地方に行かれ、二つの癒しの奇跡を行われました。一つは、百卒長の僕の病気が癒された奇跡であり、もう一つは、ナインという町でやもめの女の子供を死から生き返らされた奇跡でした。

 

 そこで今日は、カペナウンの奇跡について学びます。この癒しが起きたのは百卒長の信仰でした。この人はローマ軍の軍人で、この地方に派遣されていた人です。しかし、彼は異邦人であるにもかかわらず、ユダヤ人から「わたしの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれた」と言われるほど、ユダヤ人の立場を理解し、彼らを愛するほどの理解者でした。

 

 この百卒長のしもべが病気に倒れ、「死にかかっていた」ので不憫に思った百卒長は、イエスのところに使いをやって助けを求めたのです。そこでイエスが行こうとしたとき、百卒長はふたたび使いを寄越して、「わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。・・・ただお言葉を下さい」と求めました。そしてイエスからお言葉をいただいてかえってみると、病人は癒されていたのです。

 

 マタイ福音書8章13節には「イエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた」とあります。つまり、み言葉が与えられたその瞬間に癒されたのです。み言葉には権威があり、力があったからです。詩篇107篇20節に「彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い、そのみ言葉をつかわして、彼らをいやし、彼らを滅びから助け出された」とあります。主のみ言葉にはわたしたちを癒し、強める力があります。ですから、何かの問題があるとき、また病のなかで苦しんでいるとき、み言葉を求めて、与えられるまで祈ってください。み言葉があたえられたときすべての問題が解決するときです。

 

 ある日、教会員の息子さんから、「父が三日間も眠れなくて苦しんでいます。お祈りにきてください」と電話がありました。そこで、「神様、お言葉をください」と祈りました。そして与えられたみ言葉を持ってその家に駆けつけました。病人は苦しそうな声で呻いていましたので、頭に手を置いてお祈りしました。そのときに与えられたみ言葉は詩篇104篇30節でした。そして暫くお祈りをして帰ろうとしましたが、最終バスが出たあとでしたので、仕方なく、上野発の最終列車の時間まで、そこに留まって祈りました。家族の人たちもわたしが帰らないので一緒に祈っていました。二時間ほど祈ったでしょうか、最終列車に乗って長野の教会まで帰ったのが真夜中でした。

 

 翌朝、息子さんから電話があり、「父は先生がお帰りになって間もなくして、グウグウとイビキをかいて眠りました。今朝はもう見違えるほど元気になりました」という報告を受けました。「そのみ言葉をつかわして、彼をいやし、彼らを滅びから助け出された」とのみ言葉どおりに成就したのです。いろいろな問題で悩むことがあってもみ言葉が与えれるまで祈ってください。み言葉が与えられたらもう大丈夫です。

 

 

 昔、京都の有名な医師の娘さんが盲腸の手遅れで腹膜炎になりました。お父さんは「あとは神様に癒していただくだけだ」と祈っていました。それを見た長男の医師が、「なにもしないで妹を殺すつもりか」と怒りましたが、お父さんはひたすら祈っていました。すると、奇跡が起こったのです。熱が引いて、快方に向かったのです。そのとき、東京の柘植不知人先生から電報が届きました。電文は「井戸の水をすい涸らせり」とありました。そのお言葉のとおりに熱が引いて癒されたのです。そこで、その電報がいつ発信されたのか時間をみると、熱が引き出したのと丁度同じ時間だったのです。まさしく、「ちょうど、その時に、僕はいやされた」のです。(2017.4.2