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2017年9月24日

放蕩息子のたとえ話  

 

『そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」。しかし父は僕たちに言いつけた、「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」』。(ルカ福音書15章20節~24節)

 

 これは、イエスが語られた「放蕩息子」の譬え話です。このことを通してイエスは、神の愛について語られました。つまり、神は、悔い改めて立ち返る者を迎えてくださるというのです。

 

 この譬え話は、ある農園の次男坊が、父から自分が相続する分の財産をもらって、よその町へ行きました。彼は、この資産を元手にして働いて金を儲けるつもりでしたが、持ちなれない金を持ったために遊ぶことを覚えて、放蕩して浪費してしまいました。これから一所懸命に働こうとしましたが、その地方がひどい飢饉のために働くところもなく、食べることに窮しました。

 

 そこで、一緒に遊んだ友だちのところに行きましたが、だれも親身になって相手にしてくれる人もなく、豚飼いをして、豚の食べる餌を食べるところにまで落ちぶれてしまったのです。そこで彼は本心に立ち返りました。こんな他国で死ぬよりも、父のところには大勢の雇人がいる、自分はもう貰うべき財産をもらったから、いまさら子どもとして帰ることはできないが、せめて雇人のひとりにでも受け入れてくれたらと郷里に帰ってきました。

 

 ところが、まだ遠く離れていたのに父は息子を見つけて走り寄り、その首をだいて接吻をして迎えました。息子は、「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません」と言いましたが、お父さんは、僕に、「さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい」と言って迎えたのです。これは父の愛でした。彼は落ちぶれたホームレスのような姿になった息子に最上の着物を着せて、雇い人の手前にも恥ずかしい思いをさせないための配慮です。また指輪をはめたのは、これはこの家の息子というしるしです。彼は雇い人として雇ってもらえればと思って帰ってきたのに、父はわが子として迎えいれたのです。これは父の息子に対する愛だったのです。

 

また、履物を履かせたのは、彼は裸足の状態だったので、(裸足は奴隷の姿だったので)、お前は奴隷ではない、わたしの息子であると示したのです。つまり、神は悔い改めて立ち返る者を、子として迎え受け入れてくださるのです。ですから、わたしたちも神から離れてしまったときも、悔い改めて立ち返るところに幸せがあるのです。

 

 イザヤ書44章22節に『わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから』とあります。。贖うとは、罪の身代わりになることで、イエス・キリストは十字架に掛かって死に、わたしたちの罪の身代わりになって死んでくださったのです。ですから、イエス・キリストはわたしたちの身代わりとなってくださったと信ずる者は、みな罪が赦されるのです。

 

 アメリカで青年が、父親と喧嘩をして、父をぶん殴って家を飛び出しました。そして誰も知らない遠い町で、自分の力で働き、一旗揚げて父を見返してやろうと働きましたが、そんな気持ちでは、どんな仕事についても長続きせず、職業を転々とするありさまでした。

 

 そんなときに、自分のしたことを悔い、彼はもういちど父親のもとに帰って人生を出直そうとしました。そこである日、父に手紙を書き、自分が父親に対してしたことを謝りました。そして「〇月〇日の何時の汽車で帰るから、もし赦してくれてるなら、庭の木に白いリボンを結んでほしい」と書きました。そして、父が赦していてくれるなら家に帰ろう。そうでなければ、再び他の町に行こうと考えたのです。

 

 やがてその日がきて、彼は汽車の窓から、顔をくっつけるようにして覗きましたら、沿線が見える彼の家の木には、なんと真白いリボンがいっぱい、まるで梨の花が満開のように結ばれていたのです。これは父親の愛情だったのです。父の「お前を、こんなにたくさん愛している」という表現だったのです。青年は家に帰ったことはいうまでもありません。そして父と和解して仲良く暮らしたそうです。

 

 クリスチャンの小説家であった三浦綾子さんの小説「羊が丘」という作品がありますが、この作品で作者は、悔い改めて立ち返る者を門戸を開いて迎えてくださる神の愛を書いております。

 

 この主人公は、北海道の札幌の教会の牧師の娘、奈緒美ですが、彼女は高校時代のクラスメイトのお兄さんと親しくなり、ある日、駆け落ちをしてよその町に行ってしまいました。その青年は画家志望の新聞記者で、「君がそばにいてくれたら、いまに素晴らしい傑作が描ける」という言葉を信じてついて来たのですが、彼は一向に絵を描こうとしないばかりか、毎晩のように飲んだくれて、荒れ果てた生活を続けていました。

 

 ある日、彼が脱ぎ捨てたズボンの後ろポケットに手紙があり、それで自分以外に親しくしている女性があることを知り、信じていただけ裏切られたショックは大きく、カーッとなって家を飛び出しました。そして気がついたときは、両親の住む札幌行きの汽車の中でした。

 

 両親の家の近くまで帰ってきましたが、帰る勇気がなく、家の前を行ったり来たりしているうちに、真夜中になってしまいました。ようやく意を決して牧師館の玄関ドアのノブを引くと、鍵がかかってなくてスーッと開くのです。なんと不用心なと思っていたとき、その音を聞きつけた父が、「奈緒美か…」と言って書斎から飛び出してきました。そして、「母さん、母さん、奈緒美が帰ってきたよ…」と叫びましたので、お母さんも飛び出してきて、玄関の土間で三人が抱き合って「よう帰って来た」と言って喜び迎えたのです。

 

 奈緒美がなにかを言おうとしても両親は、「さあ、疲れただろう。早くお前の部屋に行って休みなさい」と、それ以上、奈緒美には何も言わせないのです。そして三人が抱き合うようにして部屋に入ると、部屋は奈緒美が出て行ったときのままでした。

 

 玄関のドアに鍵がかかっていなかったのは、お父さんが、「奈緒美は必ず帰ってくる。それも昼間は恥ずかしくてよう帰らないだろう。帰るなら夜だろう」と言って、奈緒美が家出した夜から、いつ帰ってきてもいいように、鍵を掛けなかったのです。これは父の愛でした。わたしたちの神は「愛の神」です。そして、わたしたちが、いつ帰ってきても胸襟(きょうきん)を開いて迎えてくださるのです。「わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから」。お前の罪は、イエスの十字架で贖われて(赦されて)いるのだから、もうなにも心配しないで、神の愛の胸に飛び込んで来いと言っておられるのです。(2017.9.24