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2017年10月1日



金持とラザロの物語  

 

『ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。そのうえ、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧しい人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。

そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、「父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎のなかで苦しみもだえています」。アブラハムが言った、「子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている」』。(ルカ福音書161925節)

 

 

 この金持とラザロの譬え話で、イエスは「弱い者を思いやる心」について語られました。話は、金持の家の門前で、貧しく病んで傷ついたラザロが、この家から出される残飯で飢えを凌いでいました。しかし、その家の人は誰も、彼に目をとめたり、顧みる者はありませんでした。ただ、犬だけが彼のはれ物をなめて慰めていました。

間もなくラザロは死に、その家の主人も世を去りました。勿論、その家では盛大な葬儀が行われたことでしょう。しかし、ラザロのために涙を流した者はひとりもありませんでした。

 

 

 ところが、霊界ではラザロはアブラハムの懐に抱かれていたが、金持は黄泉で苦しんだというのです。なぜ、金持は黄泉で苦しんだのでしょうか。それは、彼には弱い者を思いやる心がなかったからです。25節に『アブラハムが言った、「子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている…」』とあります。

 

 とかくすると、金持は貧しい人たちの境遇が理解できず、無神経になりやすいものです。これはわたしたちも気をつけなければならないことです。健康な人は、病人や弱い者の辛さや不安がわからず、厳しい言葉を投げつけるようなことがあります。また、強い者は弱い者たちを同情することができず、踏みつけにするようなことがあります。ローマ書151節に『わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない』とあります。わたしたちが今恵みによって、豊かな環境に置かれているなら、また健康に恵まれているなら、自分たちよりも弱い者を顧み、思いやる心をもちたいものです。

 

 

 今日は、アフリカで医療伝道に一生を捧げたアルベルト・シュバイツァーの話をします。当時のアフリカは文明から遅れて、「暗黒大陸」と言われていましたが、彼がこの医療伝道に導かれた動機は、この「金持と貧しいラザロ」の譬え話からでした。

 彼は、牧師になるために神学校で学んでいましたが、この話に出会って、アフリカ伝道を志したのです。彼はある著書の中でこう書いています。「わたしたちヨーロッパの人々は文明の恵みにあずかり、ある意味では金持である。ところがアフリカは、まだ文明の光から遠く、ラザロのような立場である。もしわたしたちが彼らを無視して、貧困と病気の中にいるアフリカの人たちに対して、愛の手を差し伸べなければ、あの金持のように、神から審きを受けるであろう」と書いています。

 

 そして彼は、神学校を卒業してから医学を学び、医師としてアフリカに渡って医療伝道に一生を捧げて、暗黒大陸に希望の光を灯したのです。そして、その働きを通して彼は、1952年にノーベル平和賞を受賞しました。

 

 さて、いろんな意味で、恵まれた人はそうでない人の立場が理解できなかったり、忘れやすいものです。しかし、聖書には「強い者は、強くない者たちの弱さをになうべきである」とあるように、弱い者、貧しい者を顧みることが肝要です。また、自分の知らないうちにも彼らを傷つけたりすることのないように心することも大切です。

 

 

【シュバイツァー】

フランスのプロテスタント神学者で、バッハの演奏者としても有名。1905年から医学を学んで医師となり、1913年からフランス領の赤道アフリカ(現在のガボン共和国)に渡り、現地人への伝道と医療に奉仕した。1952年にノーベル平和賞を受けた。

 

2017.10.1