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2018年2月25日



御言を素直に受け入れなさい  

 

『だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言(みことば)を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない』。(ヤコブ121節)

 

 

 ここで、「御言をすなおに受け入れなさい」とありますが、この「すなお」とは、「疑わないで」、「そのままに」受け入れることです。そうすれば、、そのみ言葉が力となるからです。

 

 もう六十数年にもなりますが、わたしが神学校に入ったころ、東京でドイツの神学者ブルトマンが、新約聖書の非神話化論を提唱していました。これは、新約聖書のなかには神話化されたものがあるから、それを取り除いたら知性でも納得できるという意見で、例えば、イエスが水の上を歩いたとか、五つのパンで五千人を養ったとか、、死んでいたラザロを生き返らせた、といった奇蹟を取り除いてしまった方が知性で信じられる、というのです。しかし、この説はいつしか廃れてしましました。それは、そんなことをしたら、み言葉に力がなくなって、いよいよ聖書が信じられなくなったからです。

 

 テモテ後書316節に「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」とあります。つまり聖書は人間が、自分の知性で書かれたものではなく、神が霊感(聖霊の知恵)を与えて書かれたものですから、聖書のみ言葉には人の魂を救う力があるのです。ですから、素直に聖書のみ言葉を信じることのできる人はさいわいです。また、それによって力強い人生を生きることが出来るのです。ですから皆さんも、聖書の言葉を疑わないで、奇蹟も素直に信じる人になってください。そこに力があるのです。

 

 聖書のなかに、人の好意を素直に受け入れて幸せになった人と、疑って損した人のことが書いてあります。その幸せになったひとりは、サムエル記下9章に登場するメピボセデです。サウル王がペリシテ人との戦いで戦死をしたので、ダビデがイスラエルの王となりました。そして政権が確立した後、自分が今日この地位にあるのはヨナタンの支援があったことを思い出し、なんとかヨナタンの恩に報いたいと考えました。ヨナタンはサウル王の息子で、次期の王位継承者でしたが、神の御心がダビデであることを知ったとき、ダビデのために表になり陰になり助けました。ところが、彼もまたペリシテとの戦いで戦死をしていたのです。

 

 そこでダビデは、彼の忘れ形見がいないか捜したところが、メピボセデという子どもが、ロ・デバルの牧草もない僻地に隠れ住んでいるのがわかったので、使者を送って、「あなたの父ヨナタンのために恵みを施そう。あなたの父ヨナタンの地をみなあなたに返します」。そして「エルサレムに来るように」と誘ったところが、メピボセデは疑うことなく素直に、ダビデ王の申し出を受け入れたので、エルサレムで「王の子のひとりのように、ダビデの食卓で食事をした」とあります。つまり、王子の一人として優遇を受けたのです。それは王の好意を素直に受けたからです。

 

 ところが、その次の章にはハヌンという人物が登場します。ダビデがサウル王から命を狙われて逃亡生活をしていたとき、ハヌンの父がダビデに食料等を与えて助けました。その恩に報いたいと考えましたが、彼もすでに亡くなり、この世にいませんでしたので、息子のハヌンに報いたいと考え、ダビデはハヌンに「エルサレムに来るように」と使いを出したのです。ところがハヌンはダビデを疑い、それに聞き従うことをしないばかりか、その使者のひげをそり落とし、また着物を中ほどから断ち切り、腰のところまで(ミニスカート)にして、辱めて帰したのです。このことを知ったときダビデは非常に怒りました。そして使者のひげがのびるまでエリコに止まって、それから帰るようにと命じたとあります。アラブ人にとってひげはとても大切なものでしたから。ところが、使者を辱めて帰した後、ハヌンはダビデの復讐を恐れて、スリヤ人たちの援軍を求めて戦いの準備をしなければならなくなりました。

 

 マルコ福音書1015節に「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」とあります。わたしたちも神の言葉を素直に信じ受け入れる者でありたいものです。イエスも弟子のトマスに対して、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。あなたはわたし(復活した姿)を見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ福音書2027節)と言われました。人々はなぜ素直に信じられないのか、それは、その人が罪人だからです。(2018.2.25