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2018年3月18日

神に近づきなさい  

 

『しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。そういうわけだから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。…主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう』(ヤコブ46節)

 

 

 このところで三つのことが言われています。その一つは、6節に「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とあります。これは神の前にへりくだる、謙そんになるということです。また10節にも「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」とあります。神は高ぶる者を嫌いなさるかたです。そしてへりくだる者を恵んでくださるのです。

 

 サタンは元来、神に仕える天使でしたが、神のようになろうと高ぶったために、天から落とされたのです。そして天国へ入ることができなくなったので、天国に入ろうとする者たちを悪に誘惑して入れなくしているのです。ですから、悪魔の誘惑に負けないようにしなければなりません。滅びの道に道行きされてはたまりません。

 

 また、ペテロ前書56節に「あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう」とあります。これは、へりくだっておれば、神がわたしたちを高く引き上げてくださるという意味です。そしてわたしたちにとって大きな励みとなるみ言葉です。そして、わたし自身もこのみ言葉でどれだけ励まされ、慰められたかわかりません。

 

 次に、「心を清くせよ」とあります。クリスチャンはいつも心を清く保つのが神のみ心です。それは、神は聖なるお方だからです。ペテロ前書115節に『あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」、と書いてあるからである』とあります。

 

 また、「清くなければ、主を見ることができない」とあります。神は聖なる神ですから、心のきよい者しか見ることができません。よく、こんな傲慢なことを言う人があります。「神なんかあるものか、あるならここに出してみよ」と。しかし、そこにおられても心の汚れた罪人には神は見えません。神は聖なるお方だからです。

 

 次に、8節「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」。また詩篇7328節に、「神に近くあることはわたしに良いことである」とあります。いつも神の臨在に近づくことは、わたしたちクリスチャンにとって大きな恵みであるばかりか、大きな力です。「臨在」とは、キリスト教の言葉で、神のおられる所という意味です。そして、常にこの臨在に近づけば、恵みが与えられ、聖霊の力が与えられるのです。

 

まず、教会の中に神は臨在しておられます。そして、わたしたちは日曜日ごとに教会に来て、神の臨在に近づいて礼拝をささげます。そして聖霊の力に満たされて、恵まれた一週間を過ごすのです。臨在のない教会はありません。もしあるとすれば、それは教会ではなく、教会の名を名乗る建物にすぎません。

 

 神戸の街は造船の町といわれ、大きな造船所が二つもあります。昨今は大きな船舶の造船はされなくなりましたが、大切な仕事があります。それは長く遠洋航海をしてきた船舶の底についた貝殻をそぎ取る仕事です。すると水の抵抗が少なくなって、少ない燃料でよく走るのです。ですから、多少時間がかかっても貝殻を取るのです。そういう意味で造船所の存在は大切なのです。

 

 それと同様に、教会も造船所のような働きをしているのです。一週間、世俗社会で過ごしていると心にこの世俗な貝殻がつきます。そしてそのまま走っていると魂は疲れ果ててしまいます。そこで教会に来て、御臨在に近づいて(神に近づいて)、神を礼拝し、聖霊の力に満たされて、魂についた貝殻を取り除いていただくのです。そうすれば、また一週間、元気に過ごすことができるのです。ですから、クリスチャンにとって神に近づいて、神を礼拝することが欠かせないのです。礼拝はわたしたちの霊的力の充電のときであるからです。そうすれば「走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」日々を送ることができるのです。イザヤ書4031

2018.3.18